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vol.12 8月6日、広島にとって特別な一日

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    柳本 元晴 Yanamoto Motoharu
    フリー・スポーツ・ジャーナリスト
    立教大学卒業/週刊ベースボール元編集長

    広島県出身。1982年に(株)ベースボール・マガジン社に入社。週刊ベースボール編集部にて、プロ野球、アマチュア野球などを中心に編集記者を務める。91年に水泳専門誌(スイミング・マガジン)の編集長に就任。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪を現地にて取材。98年、創刊されたワールド・サッカーマガジン誌の初代編集長を務めたのち、99年3月から約10年間にわたって週刊ベースボール編集長を務める。2014年1月に(株)ベースボール・マガジン社を退社。フリーとしての活動を始める。2012年からは東京六大学野球連盟の公式記録員を務めている。

    復興のシンボルとなったカープの誕生


    8月6日、広島生まれの私にとっては、特別な一日である。世界で初めて原子爆弾が広島に投下された日だ。今年、あれから69回目の夏を迎えた。
    私は俗に言われる「被爆二世」である。被爆者である両親のもと、広島市内の南、広島に流れる7つの川(当時。今は、川は6本)が瀬戸内海に流れ出る河口の町に生まれた。終戦の年から11年後だった。
    両親、同居する祖父母も被爆者手帳を持っていた。今も同じ場所にある生家は、広島市内の南端ということと家の裏手にある、まさに“裏山”の存在があって、原爆によって、吹き飛ばされもせず、火災で消滅することもなく、今も当時の雰囲気を保ちつつ残っている。
    被爆二世という言葉は、最近の若い人たちにとってはもう「死語」かもしれない。実際に、我が家も年老いた母以外は、父も祖父母もなくなっている。被爆二世と呼ばれる多くの人が、私も含めてだが、歳をとり、私の友人でも鬼籍に入った人が少なからずいるのが現状だ。
    広島は当時、「向こう百年、草木も生えない」と言われた。しかし、着実に復興を果たし、今では、いい意味で、原爆の被害を目の当たりにすることはほとんどない。わずかながら、市内のど真ん中に残された原爆ドーム、平和公園、さらにはその中の原爆資料館で見ることができるだけだ。原爆ドーム
    そんな広島の復興のシンボルとなったのが昭和25年に誕生した広島カープなのである。今のコカコーラ・ウエスト球場は当時、「広島総合球場」、というよりも、その球場と同じ施設内に陸上競技場、ラグビー場、相撲の土俵などなどがあったことで「総合グラウンド」と呼ばれていたが、その総合グラウンドに入ってすぐ右側にあった球場の入り口付近では大きな酒樽が置かれ、市民の募金を求めた。球団が誕生したはいいが、予算不足で早々に存続の危機に見舞われたためである。
    元々、高校野球で、全国的にも名門と称される広島商や広陵の存在もあり、広島の野球熱は高かった。そこに、誕生したプロ野球チームをなくすわけにはいかないと、市民は原爆の被害からの復興途中、戦後の決して裕福とは言えない生活の中で、なけなしのお金を、その樽の中に投げ込んだのである。父も、当時はまだ広島市内に架かる橋が今ほど多くはなかったため、渡し船を利用して、観音町にある総合グラウンドに野球観戦に行っていたことをよく話してくれた。
    広島の、古くから応援する人たちが、カープを愛する心情はそれらがベースになっていると言っても過言ではあるまい。募金額は少額であっても、一人一人が、カープの存続のため、復興へのシンボルとなっている球団を失いたくないという思いで、お金を投じたのである。

    歴史を知ってこそ、本当のファンとなる

    球団誕生以来、あの山本浩二選手が涙した昭和50年の初優勝まで、カープがAクラスに入ったのはわずか1回だけだった。しかし、その間も広島のファンは熱い声援を選手に送った。特にひいきの引き倒しと揶揄されたこともあったが、熱狂的な応援は、万年Bクラスの球団にとっては不釣り合いなほど。それは、不肖の息子ながら、かわいくて仕方がないと言った親の心情にも似ているのかもしれない。
    昨今は、「カープ女子」と呼ばれる若い女性ファンが殺到し、マツダスタジアムはもちろん相手チームのフランチャイズ球場のスタンドも「赤」で染まる。皆さんの応援する姿に、余計な口をはさむつもりはないが、そのカープ女子の皆さんを含め、今の若いファンの方々には、常にカープ球団の歴史の中には、そういう先人たちの、まさに生活を引き替えにした努力、熱い思いがあったことを知っていてほしいのだ。
    そういう気持ちがあれば、今の人気が単なるブームにとどまらず、長く続いていってくれるのではないかと思う。
    「原爆の日」はいま「平和祈念日」と言われる。世界の多くの人たちにとっても「Hiroshima」は今なお、原爆の被害とその後の平和の象徴として残っている。私自身、数年前まで、さまざまなスポーツイベントの取材で海外に出かけたが、そこで知り合った他国の記者、特に欧米の記者の方々で、「Hiroshima」を知らない人はいなかった。
    中には、「広島でオリンピックが開催できればいいのに。それが本当の意味で、世界平和をアピールするイベントになるのではないか」と言ってくれた人もいた。
    2020年、東京五輪の開催が決まり、広島で五輪開催という可能性はほぼゼロに等しいが、せめて、そういう平和への思いだけは、カープファン、それが「にわか」であろうが、古くからのコアなファンであろうが、関係なく、多くの人たちに共通の思いとして持ってほしいのである。

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