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青島健太#1
「現在は輝かしい転身 プロ野球選手だった参議院議員」

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    現在は参議院議員 元プロ野球選手・青島健太 スポーツ界のためにできること(インタビュー全3回)#1
    日本維新の会・青島健太参議院議員はかつて慶大野球部、そしてヤクルト・スワローズの選手として神宮の杜を沸かせた男である。現役引退後はスポーツジャーナリスト、キャスターと転身し、現在は政治家として、活動を続けている。スポーツの魅力を伝えるため、今日を生きる。インタビューの第1回はそのキャリアを振り返る。(取材日・2023年12月1日)
     

    ――プロ野球選手からスポーツライター、そして現在は政治家に転身されました。国政に関わりたいと思い始めるようになったのは、いつ頃でしょうか?漠然と思った時期でも構いませんので、教えていただけますか?

    「大学では法学部でした。法律学科と政治学科があり、迷うことなく政治学科を選びました。なので、すぐに『政治家になりたい』という思いになったわけではないですが、政治というものが、世の中を作っていくと思っていました。政治が悪いと国も良くない方向へ進んでしまう。日本の将来を考えたら、政治を学んでおこうと思ったのは間違いないですね」

    ――慶応大では政治を学びながら、硬式野球部に所属し、東京六大学でも活躍されました。その後、社会人野球の名門・東芝に進まれましたが、政治やプロ野球への意識はどれくらいあったのでしょうか?

    「その頃は逆に(政治からは)少し遠くなっていましたね。でも自分がプロ野球選手になりたいということ自体も、そんなに明確に見えていたわけでもありません。いろいろな道があるだろうなと思っていましたから。幸いなことに大学で少し野球で活躍ができ、それでプロの方にも注目されるようなレベルにまでいきましたが、プロに進むのも、まだまだ力が足りないと思っていました」

    ――プロという選択は見送る形となったのですね。

    「社会人野球に行き、なお自分が伸びる力がつくなら、そのときに(プロの世界へ)行っても遅くないかなと思ったので、社会人野球に行ってみようと。だんだん野球中心の人生観を描くようになっていました。野球に没頭する日々でした」

    ――東芝からヤクルトにドラフト外で入団することになるのですが、当時は現役選手を辞め、社業に専念する方針を固めていたと聞きました。その時の心の葛藤を教えていただけますか?

    「ここで辞めてしまったら、もう野球を終えるのか、と。途絶えるのか、と。大学卒業の時もそうだったのですが、まだ可能性があるかもしれないと思っていました。自分の可能性を探すというかね。キャリアが終わるというのがリアルに自分の前に来たときに、まだ野球を辞めたくないなと。寂しいというか、悔しいというかいや、ここまでやってきたら、やっぱり野球を納得いくまで突き詰めないときっと悔いが残るなという思いが、芽生えたんです」

    ――東芝の方々も驚いたことと思いますが

    「会社の方々は猛反対でしたね。会社には野球を辞める前提で最後の1年、プレーをさせてもらっていましたから。『青島はどこの部署で仕事をするんだ?』みたいな形になっていたので、『いや、すいません。野球まだやめられないんです。これからプロ野球に就職活動をしますから』と辞表を提出したら、当該部長から『いや、これは年末まで預かる。ちょっと待て、待て、と』となりましたね」

    ――プロ野球に就職活動当時はドラフト外という制度がありました。

    「プロ野球から話がなかったら、東芝で仕事をしようっていう約束をしました。そこからプロ野球関係者の方に自分から打診をさせてもらいました。年末というか、クリスマスの時期くらいだったかな。当時はドラフト外という入り方があったので、今で言うとこの育成枠みたいなことですよね。ヤクルトさんからお話をいただくことができました」

    ――その頃にはもう、新入団選手の発表会見は終わっていましたか?

    「ヤクルトは明大から広沢(克己)くんがドラフト1位でいましたね。みんな、入団が決まっていてすでに入団会見をやっていました。自分だけ110日くらいにたった1人で、ヤクルト本社にて、入団会見をしました」

    たった一人の入団会見から5年後、現役を引退青島さんの引き際

    ――1989年に引退を決めた時のことを聞かせていただけますか?その後は人生をどういうふうに歩んでいこうって思われたのでしょうか?

    4年目くらいから、とてもは不本意な日々が続いたんです。両方のふくらはぎの肉離れというか、筋膜炎みたいなものがあり、走れなくなりました。その前年に立大からカズ(長嶋一茂)がドラフト1位で入ってきました。ポジションも同じサード。私がファームにいる時間がすごく多くなりました。しかも、ファームで走れない、動けないという事態になったときに、どこかのタイミングから『これはもう潮時かな』ってネガティブなことが頭をよぎるようになりました」

    ――メンタルから崩れていったのですか?

    「メンタルがやられなければ、『よし!また行くぞ!』と気持ちで盛り返すのですが、歳を重ねて、戦っている本線から少しずつ外れていくと、何か心が折れていくというのがわかリます。その敗北を受け入れていくと、マイナスの方向に心が育ってしまう。それが結構、厄介なのです。アスリートは多分そういうものだと思うんですよね」

    ――引退後はスポーツジャーナリストとしての取材者としての活動が始まりましたが、野球を辞めて、改めて思ったことはありますか?

    「自分自身、それなりに野球を辞めても、違う世界で活躍する、何か他の人と違うことをやってやろうっていう思いは、ずっと持ってはいました。私、引退後はオーストラリアに行きました」

    ――スポーツジャーナリストになる前のことですか?

    「はい、オーストラリアへ日本語の教師として渡りました。きっかけは当時、住んでいた近くに図書館がありまして、新しい仕事を探そうと思ったわけじゃないのですが、何かヒントになるような書物などがあるかなと思って。たまたま、図書館にオーストラリアから来ている留学生がいました。日本語を勉強していたのでコミュニケーションをとっていたら、その人と仲良くなって。そこから、ひと月ぐらい、彼と約束をして、毎日、日本語を教えてあげたり、英語を教えてもらったりしていました」

    ――年齢はいくつくらいの方だったのですが?

    「オーストラリア人で、30代後半くらいの男性でした。結構、熱心にやってくれましたし、日本語を教える作業が楽しかったです。ちょっと調べたら、東京・文京区に日本語教師を養成している学校がありまして、仕事ではなく、インターンみたいな形で行ってきました」

    ――日本語を教えるという夢は叶ったのですか?

    「メルボルンから北にいったビクトリア州の小さい町、ケラングという4000人ぐらいの小さな町の中にある中高一貫校に行きました。そこに中学生と高校生20人ずつぐらいの日本語専攻している子どもたちいるんです。そこに臨時のアシスタント的な日本語教師として、教えていました。そこで正規採用のような形ができれば良かったのですが、ビザの問題などもあり、教師にはなれなかったのですが、日本語を教えることはできました」

    ――そこで日本に戻られて、ジャーナリストの道へ。スポーツを見る目も変わったとお聞きしました。

    「スポーツの書き手としての全ての原点は、オーストラリアで過ごした時間ですね。そこで考え方が変わるというか、自分が成長したとも言えます。今までとは違う発想を持てるようになったのは、今、議員をやっていることも含めても同じです。日本でプロ野球の選手として、自分なりにけじめをつけて、オーストラリアに行きました。移住も視野に入れながら渡りましたが、向こうに行って、リタイアの概念が違ったのが大きかったです」

     
    (第2回に続く)

    青島健太(あおしま・けんた)

    1958年4月7日、新潟・新潟市生まれ。埼玉・春日部高から慶大に進学。六大学野球で当時史上最多タイのシーズン6本塁打をマーク。社会人野球へ進み、東芝から1984年にドラフト外でヤクルトに入団。89年に引退後。スポーツライターやスポーツキャスターとして活躍。2006年にはセガサミー硬式野球部の初代監督に就任し、都市対抗初出場を果たした。19年には埼玉県知事選に無所属で出馬。落選したが2022年に日本維新の会から参院選比例代表で出馬し、当選を果たした。

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