HERO'S COME BACK~あのヒーローは今~

柴田章吾#1
「国指定の難病を患っても…プロになれた理由」

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    #2 巨人に入って掴めなかったチャンス#3 東南アジアで叶えたい夢

    元巨人投手がセカンドキャリアを支援 巨人で掴めなかった1軍のチャンス(インタビュー全3回)#1
    厚生労働省指定の難病「ベーチェット病」と闘いながら甲子園に出場、プロ野球選手となった元巨人の育成投手・柴田章吾さんは、2014年に現役引退。外資系総合コンサルティング会社を経て、現在は起業家として活躍中。夢を追い求め、フィリピン、インドネシアに渡り、活動の幅を広げている。病気で苦しい思いをしてもプロ野球選手になった過程を紹介する。
    (取材日・2023年10月24日)
     
    ――現役を引退して間もなく10年が経とうとしていますが、引退をしてから今はどのように過ごしてきましたか?
     
    「現役引退をしてから、巨人から球団職員の仕事をいただきました。ジャイアンツアカデミーで幼児から小学生に野球を教える仕事をする中で、海外で仕事をしたいという気持ちが芽生えてきました」
     
    ――引退後に留学もした?
     
    「巨人の球団職員をやりながら、次のキャリアの準備をしていました。その中で、外資系のコンサルティング会社に入社する機会を得て、ITコンサルの仕事に挑戦しました。その前に英語を話せるようになりたいと思って、イギリスとフィリピンにホームステイをしたんです」
     
    ――留学で得られたことは?
     
    「地域の子どもたちに『野球を教えるから英語を教えて』と頼んで、一緒に遊んでいました。フィリピンでは、本格的に野球を教えて欲しいと頼まれるようになり、『東南アジアの子どもたち向けに野球アカデミーを作るのは、誰もやったことがない上にとても可能性があるのではないか』と思うようになりました」
     
    ――外資系企業勤務をしながら、知識とスキルをつけて、独立。アカデミー設立への思いはどのように実現をしていこうと?
     
    「仕事と同じくらいの熱量を持って、フィリピンで野球アカデミーを設立することに力を注ぎこみ、2020年1月に現地でワンルームのマンションを借りて引越をし、いよいよ本腰を入れて取り組もうとした矢先に、新型コロナウイルスの感染拡大ですぐに帰国を余儀無くされました。東南アジアでの野球アカデミー事業は一旦暗礁に乗り上げたものの、どうしても夢を諦めきれず、今年(2023年)もう一回、やってみようとトライしました」
     
    ――柴田さんの原動力はどのような部分なのですか?
     
    「おかげさまで、独立後に活動しているコンサルティングの仕事は順調にクライアントの数も増えていき、普通に生活を送ると言う意味では何不自由ない状態になりました。その意味では非常に恵まれているとも言えます。ですが、それではどこか物足りない。僕には夢がある。病気をしたり、怪我をしたりするたびに、僕は人生の多くの部分を野球から教わり、野球のおかげで生きる力を得てきた部分がありますから。」
     
    ――病気とは?
     
    「ベーチェット病という厚生労働省指定の難病です。死んでしまうのではないかという思いにもなったこともあります。フィリピンの野球環境も決して恵まれているわけではありません。苦しい中から、野球の魅力を伝えられるのは、僕しかできないことじゃないかなって思っています」
     
    ――この病気はどのようなものなのでしょうか?
     
    「腹痛や嘔吐、練習中に倒れることもありました。医師からも野球を続けるのはおろか、運動することも難しいと言われたこともありました」
     
    ――愛知の強豪・愛工大名電高校のご出身ですが、仲間と一緒に練習できない自分を悔やんだ時期もあったのではないですか?
     
    「みんなと同じ練習ができなかったことに悔しい思いはしました。それでも恩師である愛工大名電・倉野光生監督や仲間の支えもあり、最後の夏は甲子園にも出場するまで復調して、憧れの聖地のマウンドにも立つことができました」
     
    ――最後の夏は間に合ったんですね
     
    「はい。3年になってからは少しずつ練習ができるようになっていました。愛知大会の準々決勝から登板しました。マウンドに立ったら、腰が痛くて、10-0とリードをもらっていた状態でリリーフをしたのですが、僕が投げて3点を取られてしまいました。でも準決勝、決勝と不思議と痛みが消えました」
     
     
    ――甲子園に出場し、明大に進学した理由は病気も少し関係していた
     
    「ありがたいことに東京の六大学からオファーをいくつかいただきました。でも自分は病気を持っているということもあって、全く知らない環境で、一から病気の説明を周囲にするよりかは、高校の3学年上の池田樹哉先輩がいる明治大学を選びました」
     
     
    ――大学野球はどのようなスタートに?
     
    「同学年に広島カープで活躍している野村祐輔投手がいて、2人で1年生の春からデビューすることができました。高校までMax142キロだったのに、入学後すぐに146キロが出たんです。あれ、もしかしたら(プロ野球選手に)なれるかもと思いました」
     
    ――リーグ戦も怪我との戦いだった?
     
    「ヘルニアになってしまって…2年生の時にまた試合で投げることはできたのですが次は腰椎分離症になりしました。高校時代に基礎練習ができていなかったので、パフォーマンスに追いつけず、腰に負担が来たのだと思います。腰痛明けには、ついにイップスにもなってしまいました」
     
    ――それでもプロへの道は続いていた?
     
    「イップス症状が出てからは選手として評価されるような結果が残せず、大学3年生の終わり頃からみんな進路が決まりだすのですが、僕と楽天にいる阿部寿樹だけ進路が決まってなかったんですよ。最後の最後に、阿部と2人で社会人チームのセレクションを受けにいったら自分だけ落ちてしまったんです」
     
    ――その後はどうしたんですか?
     
    「やばい、やばいとなって、その後にジャイアンツと明大のファーム交流試合が8月にあったので、監督の厚意でアピールの場を準備してくれました。その登板が3イニング無失点の完全投球。その試合を見てくれた巨人のスカウトさんから話を頂きました]
     
     
    ――2011年のドラフト会議に育成3位で巨人に指名され、晴れてプロ野球選手になれました。苦しい道のりを経て、夢を実現した当時の気持ちは?
     
    「病気や怪我、イップスになっても、諦めずに頑張っていればプロ野球選手になれる。夢は諦めなければ叶うということを知りました」
     
    (第2回に続く)

    柴田章吾(しばた・しょうご)

    1989年4月13日、三重県生まれ。中学3年の4月から国指定の難病、慢性疾患「ベーチェット病」の闘いながらも愛工大名電で甲子園出場。マウンドにも立った。明大から2011年育成ドラフト3位で巨人に入団。支配下登録を目指すも2014年2月の宮崎キャンプ中に虫垂炎を発症。1軍登板はなく、同年で現役引退。ジャイアンツアカデミーのコーチとして野球振興に携わり、経営者としても活躍中。

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