「照ノ富士を援護した照強に泣けた」
大相撲7月場所は、見ごたえたっぷりで、感動の連続だった。
横綱・白鵬の休場が、優勝争いを激化させた。
結果次第では、巴戦での優勝決定戦の可能性もあった。
最終日、幕尻、前頭17枚目の照ノ富士は(12勝2敗)は関脇・御嶽海(11勝3敗)と対戦。千秋楽では、大関・朝乃山と関脇・正代がともに11勝3敗で激突。御嶽海が照ノ富士を破ると二人が12勝3敗で並び、朝乃山と正代の勝者と3人で優勝決定戦を争うところだった。
しかし、結果はご存じの通り本割で照ノ富士が御嶽海を破り、5年ぶり2度目の優勝を決めた。
一度は大関まで上り詰めた照ノ富士だったが、その後は地獄を見た。ケガと病気の連続。両足の膝を手術し、C型肝炎を患い、糖尿病にも苦しんだ。大関を陥落したばかりか、序二段まで落ちて、引退を本気で考えた。今場所も膝には入念なテーピングが施されていたが、右膝の十字靱帯、左膝の半月板はもうない。
伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)の必死の説得もあり、何とか土俵に戻ってきたが、とても優勝など狙えるような状態ではなかった。それでも照ノ富士は諦めることなく稽古を続け、今場所何度も見せた丁寧な相撲で、勝ち星を積み重ねていった。
そして手にした2回目の賜杯。
「みんなが支えてくれて、恩返しがしたかった。こうやって笑える日が来てうれしい」と、照ノ富士はリモートのインタビューでその喜びを素直に口にした。
その時、テレビカメラは表彰式を待つ伊勢ケ浜親方を映したが、眼鏡をした親方が目頭を押さえているシーンが映し出された。
多くの人が親方と同じ思いで照ノ富士の優勝を見つめていたことだろう。
照ノ富士への賛辞は、惜しむことなく続いているが、本稿では冷静にこの人について触れておこう。
14日目に朝乃山を破った伊勢ケ浜部屋の照強だ。
この直前に照ノ富士は、正代に敗れて12勝2敗になっていた。もし朝乃山が勝てば、12勝2敗同士で並ぶところだった。ところが照強が、秘策の「足取り」で朝乃山を破って同部屋の照ノ富士を援護したのだ。この勝利で翌日「照ノ富士が本割で勝てば優勝」というお膳立てが出来上がったのだ。
前の晩から「足取り」を考えていた照強は、付き人の錦富士の「いけるんじゃないですか」の言葉に勇気をもらった。
大関を1秒余りの相撲で倒した照強は、「してやったり」の表情で言った。
「照ノ富士関が負けたので、もう一度単独首位に立たせてやろうと。それが実現できてよかった」
「自分の星(この相撲で勝ち越しを決めた)がどうこうより、援護射撃の気持ちが強かった。優勝してほしいですね。伊勢ケ浜軍団として援護できれば」
照ノ富士の優勝に心が震えた。
本割で朝乃山を破った相撲は、気迫に満ち溢れていた。
地獄を見た人の強さがそこにあった。
しかし、優勝には必ず伏線がある。
今回のそれは、まちがいなく照強と朝乃山の一番だっただろう。
照ノ富士の努力が、照強に伝わり優勝して欲しいと思わせる。
結果もさることながら、本当に大事なことはそういうことなのだろう。
みんなを頑張らせる姿勢を、照ノ富士が見せることができた。
だからこそ、彼が優勝に値する力士になれた。
本当に素晴らしいことは、そういうことなのだと思う。
やっぱりスポーツっていいいな。
昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。