「2020年ベストバウト 阿部一二三対丸山城志郎」
2020年を振り返って一番印象に残る試合、「ベストバウト」を挙げろといわれたら、迷うことなくこの一戦を推す。
12月13日に行われた男子柔道66キロ級東京五輪代表決定戦、阿部一二三(23歳)対丸山城志郎(27歳)の激闘だ。
それは前代未聞の一騎打ちとなった。
武蔵と小次郎の戦いになぞらえて「令和の巌流島」とも呼ばれた。
最後まで決まっていなかったこの階級の代表を、ワンマッチ(この試合だけが開催された)の一発勝負で決することになったのだ。
16年リオデジャネイロ五輪後から世界で活躍を続けていた阿部は、日本オリンピック委員会(JOC)はもちろん、東京五輪&パラリンピックの顔として不動の代表だと思われていた。しかし、そこに隙があったのか、18年、19年と丸山が阿部を倒し続け、19年世界選手権の決勝でも丸山が阿部を破っていた。
この日までのふたりの直接対決は、丸山4勝、阿部3勝とほぼ互角の成績だった。
コロナ禍で代表を決めるはずだった試合が延期。
伸びに伸びて、講道館での一発勝負になったのだ。
ともに世界王者。
それは、実力伯仲の選手同士が戦うとこうなるのかという死闘だった。
決着がつくまでの試合時間は、延長を含め、なんと24分(本来の試合時間は4分間)。
一瞬たりとも気の抜けない攻防が続いたが、最後は阿部の繰り出した大内刈りが決まり(ビデオ判定)、「技あり」を奪った阿部が丸山に優勢勝ちをおさめた。
この結果を受けて、阿部一二三が東京五輪代表の立場を手に入れた。
観ていて切ない試合だった。
勝った阿部は、素晴らしかった。
最後まで、攻める気持ちを持ち続けられたことが、阿部の勝因と言えるだろう。
ほんの一瞬の隙を見逃さず、技を繰り出した阿部の攻撃性が、丸山を奈落の底に突き落とした。勝負とは残酷だ。でもだからこそ美しい。
私は、この試合で完全に丸山の虜になってしまった。
それは、負けたことへの同情からではない。
彼の背筋の伸びた立ち姿が美しく、最後まで正々堂々と戦い続けていたからだ。
勝ち負けを越えて、私は丸山の柔道に魅了されたのだ。
なにがなんでも…
どんなことがあっても…
きっとこの種の気持ちで阿部が勝っていたから彼が勝ったのだろう。
もちろん丸山にも、そうした思いは十分にあっただろうが、彼の佇まいにはそうした欲のようなものが感じられなかった。
彼は、柔道をやっていた。相手を投げ切る美しい日本の柔道を。
ポイントで勝つ世界的な「JUDO」ではない。
もちろん阿部も柔道をやっていたが、阿部の攻撃性に「JUDO」の香りを感じた。
だから、阿部が五輪代表にふさわしいのだ。
試合後、丸山はこんな言葉を残している。
「僕の柔道人生は終わっていない。これからも前を向いて精進していく」
阿部の思いは、成就された。
丸山は、この敗戦にどんな形でリベンジしていくのか。
大事な試合で、仕事で、受験で…、勝っても負けても人生は続く。
丸山が言うように、これからも前を向いて精進していくだけだ。
丸山城志郎。
その美しい柔道家を忘れることはない。
この敗戦のエネルギーが、何を生むのか…。
私は、そこを最後まで見届けたい、と思った。
昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。