チャンピオンの僕が生活のために「やらなくてはなかった」こと 元プロボクサー・内藤大助氏が語るボクシング界の現実(インタビュー全3回)#2
■衝撃のプロデビュー…舞い込んだ世界戦へのオファー
プロテストを受けたのが22歳の頃だった。頑張ってやって、20歳でボクシングを始めて、ジムの方から『プロテストを受けてみるか?』と。22歳でとうとう声がかかった。嬉しかった。体は小さい方だったんだけど、運動神経はよかったし、意外と強かった。ボクシングが自分にとってやりやすかったのは体重別だから。ハンデがないし、これは俺にも合っている、と。
元々、運動が好きだった。プロになれるとかそんなものはなかったけど、もしもプロになったとしても同じ体のやつしかやらないし、もう多分そこはポジティブに考えた。元々は、ネガティブな人間なんだけどね。
モチベーションが上がっていたので、頑張れた。結構多いのが、ボクシングをやった人で、ライセンスを取って辞めてしまう人。記念にプロテストを受けるという形がある。ここまで頑張ったんだ、みたいな。いざ、プロテストに受かったからといって、実際、プロのリングに上がる人は少ないです。僕は受かりたかったし、次の目標が、プロデビューと思うことができた。プロデビューして、勝っていうのを目標にできたから続けられた。
実際、プロのリングに上がるってやっぱり今の日本では厳しいと思う。なぜなら、みんな仕事をしながら、プロテストを受けている人が多いから。結局、一番はメシを食っていくことが生きていく上で大事。プロテストは1日だけ仕事休めばいい。でも、プロになったら、そうするわけにいかない。プロボクサーを目指す人は今、めちゃくちゃ減ったと思う。
テストも受かって、僕はプロデビュー戦は1ラウンド、KO勝ち。だんだん、自分の中で勘違いが始まってるんだよね、「俺って強いな」って(笑)。1勝して、新人王決定戦に出るチャンスを得た。1997年度の新人王の予選にライトフライ級で出て、デビュー戦を含めて1ラウンド。3連続1R勝ち。3戦3勝3KO、みたいなスタート。1回目の挑戦ではとれなかったけど、2回目でも新人王がとれた。勘違いしちゃうよね。
田舎でも応援してくれて、後援会までできて、祝勝会までやってくれた。うん、もう大きく勘違いしちゃうよ(笑)。ローカル紙ですけど北海道新聞だったり、室蘭民放だったり、大きく掲載された。スポーツ新聞にも取り上げてもらったよ。地元ではいじめられっ子の内藤大助、全日本新人王に輝く――。みたいな感じで。
もう、鼻高々でした。嬉しかった。かといって、練習をさぼることはなかった。その後もボクシングを続けた。無敗のまま、26歳で日本フライ級のタイトルマッチ初挑戦したね。相手のチャンピオン、協栄ジムの僕の翌年の新人王になった坂田健史くんと戦うことになった。彼も無敗だった。その試合は無敗対決で試合は引き分けだったな。
判定を巡って、ちょっと乱闘騒ぎになった。その騒ぎの方がメディアに大きく報じられてしまった。僕的にそうじゃなくて、俺が勝っていた試合。こっちは命張ってやっているのにな、って思いました。無理やりドローにされたんだって思った試合だったことをよく覚えています。
そのあとは急に世界戦の話が舞い込んできた。ジムから『内藤くん。世界戦をやれ』と、世界挑戦のオファーが来てるっていうね。当時、一度か二度、防衛したタイの世界チャンピオン・ポンサクレックが誰か日本人で防衛戦を相手を探しているという話でした。そこで僕の名前が挙がったと聞きました。そこで抜擢されて、敵地のタイだけどやるか?と言われて…。ちょっとびっくりして、日本タイトルをとっていない自分がいきなり世界を戦うなんて…マジかと思いました。
でも、こう考えた。日本タイトルが取れなかったのは、世界チャンピオンになるためだったんだと解釈すればいいや、って。そう理解しようと。日本タイトルから世界タイトルに目標が変わりました。タイの世界チャンピオンからしたら、戦績もいいし、日本人だし。地元のタイでやるにはうってつけの相手だったんだろうね。でも、僕はやりますと返事しました。
トレーニングをやりましたね。ただ、今思えば、やったつもりになっていただけだった。結局、ジムではミット打ちをするぐらいだけだった。でも、ちゃんとしたトレーナーがいないといけないなと思って、自分の1つ年下である現役を辞めた後輩が『よかったら僕一緒につきましょうか』って言ってくれた。彼がメニューを組んだりとかしてくれた。世界戦に集中することができた。今思えば、それだけの準備、練習量では世界戦で勝てるはずがなかったんだけどね。
乗り込んだのはタイだった。暑い時期にあたる(2002年)4月。絶対に長期戦は無理だなって思っていた。1ラウンドから全力でぶっ飛ばしていく作戦だった。12ラウンドは無理だと思っていたから、5ラウンド以内で倒せればと思っていた。いざ、試合が始まったら、カウンターをもらってしまった。34秒KO負け。フライ級史上最短ノックアウト負けという不名誉な記録を作ってしまった。
ただでさえ負けただけで悔しいのに、あの後、傷口に塩を塗られた気持ちにもなった。ネットの書き込みもあった。辞めろと言われたけど、僕は辞めるつもりはなかった。恥をかいたまま、辞めることはしたくなかった。世界タイトルはもう絶対無理だなという気持ちになりましたけど、日本タイトルは取れるはずだ!って奮起しました。ここで辞めるには、あまりにも悔しすぎて…。
日本タイトルは取れると自分に信じ込ませました。ただ、なかなかタイトルマッチのチャンスが来なくて、29歳と11ヶ月。30歳のころにようやく…。それまで、いろんな人に迷惑かけた。奥さんにもずっと働いてもらっていました。僕も世界戦で負けてからはアルバイト始めました。ボクシングだけだったら、食べていけないんです。
絶対勝つという気持ちで挑んだ一戦。判定ではありましたが、日本チャンピオンになりました。リング上のインタビューで「おめでとうございます。今後の目標は?」と聞かれたときに、日本のタイトルを取ったら「もうやめようかな」と思った自分がいました。
でも、日が経つと欲が出てしまいました。今度はチャンピオンとしてリングに上がりたいと思った。チャンピオンとしてリングに上がったら、ファイトマネーも違ってくると思った。
日本チャンピオンになってからもリングに上がりました。防衛することはできましたが、その後、2度目の防衛戦をなかなか組んでもらえなかったんです。
所属していたジムに「2度目の防衛戦はいつやるんですか」と聞いたら、テレビ局(放映権)がつかないと「できないから」と。組んでほしかったのですが、「テレビがつけばお金になるから」と。こちらとしては“知らんがな”って話ですけどね…。
初防衛から半年後。やっと来ました、2度目の防衛戦。なかなかボクシング一本で食っていけなかったので、アルバイトをしていました。日本チャンピオンの僕がアルバイト探しです。情報誌を読んで。履歴書を買って、写真貼って書類を書きました。
面接を受けにいった会社の社長さんからは「内藤くん。最後のお仕事を辞めてから、だいぶ日が経ってるけど、この間はどうやって暮らしたんですか?」と聞かれました。僕は「いや、ちょっと自分、実はやっていることがございまして」と返すと「何をしてるの?」と言われたので、はっきり言いました「ボクシングをやっています」、と。
「プロになるのか?」「そうです」「どれぐらい強いの?」という会話はもうネタですよね。コントですよ。「日本チャンピオンでございます」というと「日本チャンピオンなの?。なんでうちに面接来ているの?」と驚かれるのまでがお決まりです。
「試合をしない限り、僕らは食べていけません。ファイトマネーというものが入ってきません」。これが現実なんです。変えなきゃいけないんです。面接は2社落ちたかな。ばかみたいです。そりゃ日本チャンピオンなんて、雇いたくないよねっていう話ですよ。最終的にはレンタカー屋さんでバイトしました。車の掃除をしたりしましたね。
アスリートがこんなんじゃ駄目なんですよ。自分はもっとプロボクサーの地位をあげていきたいと思っています。
(第3回に続く)
プロフィール
内藤 大助(ないとう だいすけ)1974年8月30日生まれ。北海道出身。卒業後に上京し宮田ボクシングジムに入門。1996年にプロデビューし、1998年12月に全日本フライ級新人王を獲得。2004年に日本フライ級王座を獲得。2006年には日本・東洋太平洋王座の2冠。2007年には3度目の挑戦で見事、WBC世界フライ級王座を獲得した。現役引退後はタレントや講演活動などを行っている。