「ドラフトから漏れた選手たちへ」
1984年11月。
もう気が付けば37年前のことになる。
私は、東京・浜松町の東芝ビルで「プロ野球ドラフト会議」の行へ(テレビ中継)を見守っていた。小さな会議室には、数人の新聞記者も来ていたと記憶している。秋の日本選手権が終わった段階でプロ入りを希望し、その旨をプロ野球関係者に伝えていた。複数の球団から問い合わせがあり、どこのチームでも指名されれば行きたいと返答した。
すっかりドラフト会議の名物となったパンチョ伊東さん(故・伊東一雄氏)の独特の節回しが会場に響く。
「第1回選択希望選手、ヤクルト、広沢克己、明治大学」
次々と読み上げられる各球団の1位指名選手。
指名が重複した選手は、抽選によって決まるのは今と同じだ。
残念ながら1巡目で当方の名前が呼ばれることはなかった。
大学を卒業後、4年間社会人野球をやった26歳の選手は、年齢的にもリスキーな選手だ。「指名があっても下位の方だろう」と自分に言い聞かせた。
2巡目、3巡目、待てども待てども「青島」の名前は呼ばれない。そうこうしているうちにテレビ中継は終わり、新聞記者の姿も見えなくなってしまった。
その後は、ラジオを頼りに各球団の指名を聞いたが、結局、最後まで私の名前が呼ばれることはなかった。
それは今でも忘れることのない悔しさだ。
何が辛いかと言えば、職場の人たちも期待して待っていてくれたので、会わせる顔がない。その時は、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
10月11日(月)、今年のドラフト会議が行われた。
その緊張感は、今も昔も変わらない。
野球選手たちの運命が、この会議で決まっていく。
上位指名の選手たちが、テレビのインタビューで喜びを語る。うれしさはもちろん、彼らの中にあるホッとする気持ちがよくわかる。何位の指名であろうと現行のルールでは、この会議で指名されない限りプロ野球への扉は開かない。そんな彼らには、とにかく「おめでとう」と言ってやりたい。ただ何位で指名されようが、プロの世界に入ってしまえば実力の世界だ。だから、あとは結果でのし上がっていくしかない。楽しみに彼らの活躍を待とう。
さて、この稿で届けたいのは、指名から漏れた選手たちへのメッセージだ。
どうかくじけないで頑張って欲しい。ヤクルトの後輩でもある古田敦也氏は、大学時代、眼鏡をかけていることを理由に指名されなかった。後に彼は、「いつか見返してやる」という気持ちがその後の原動力になったと語っている。社会人野球に進んだ古田氏は、2年後ヤクルトに指名され、球界を代表するキャッチャーとして活躍する。若い人たちには、必ずチャンスがある。問題は、指名漏れのエネルギーをどう使うかだ。野球選手にとって、これほど大きなエネルギーはない。
蛇足だが、指名から漏れた私も、会社に辞表を出して、自らプロ野球への就職活動をした。当時は「ドラフト外」という採用があって、ドラフトにかからなかった選手も入団が可能だった。私はヤクルトとの契約を果たし、85年1月、たった一人で入団会見を行い、プロ野球生活をスタートさせた。今思えば、すごい行動力だったと思う。
ドラフト会議から漏れた野球選手だけじゃない。
挫折こそ、エネルギー源だ。
もちろん最初から挫折なんかしたくないが、もしそうなったら、その状況を歓迎するしかない。その時には、自分でもびっくりするほどの力が出る。
これ、けっこうホントです。
指名漏れのみなさん、頑張っていきましょう!
昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。