令和の断面

【令和の断面】vol.69「サッカー日本代表で気になった髪の色」

SHARE 
  • 連載一覧へ


    「サッカー日本代表で気になった髪の色」

     些細なことだが、選手たちの心境や置かれた環境は、きっとこうしたところに現れるのだと思った。

     サッカーW杯(2022カタール)アジア2次予選、5月28日に行われたミャンマー戦(フクダ電子アリーナ)は、10対0で日本が勝利し、タジキスタン(7日)、キルギス(15日)の2試合を残しながらも、最終予選への1位通過が確定した。

     国内が混乱(国軍のクーデター)の中にあっても、この試合に駆け付けたミャンマーチームの勇気と責任感にまずもって敬意を払うべきだろう。
     試合は10対0と厳しい結果に終わったが、彼らにはまだ望みをつなぐ試合が残っている。日本戦での大敗から、次戦に向けての修正点を何とか見出して、チャンスを生かして欲しいと願う。

     コロナ禍でなかなか召集のかからなかった日本代表だったが、久しぶりのピッチで代表のメンバーは縦横無尽にパスを回しゴールを量産した。
     W杯予選で連続得点を続けていた南野拓実(サウサンプトン)は、この試合でも先制点を含む2得点をあげて、予選開幕から6戦連続のゴールを決めた。その他、守田英正(サンタクララ)、鎌田大地(フランクフルト)、板倉滉(フローニンゲン)がそれぞれゴールを奪ったが、何と言ってもその存在を際立たせたのは、大迫勇也(ブレーメン)だった。
     前半22分に長友佑都(マルセイユ)からのクロスにヘディングで合わせてチーム2点目を決めると、そこから怒涛の4得点。後半43分にも南野からのボールを頭で押し込んで得点。一人で5得点をあげて、ミャンマーの息の根を完全に止めた。

     今回の日本代表は、試合に出なかったサブのメンバーを含め26人全員が海外組で編成された(パルチザン・ベオグラードから帰国したFW浅野琢磨は無所属、アントワープのMF三好康児はチーム事情で不参加)。
     ミャンマー戦の勝敗への興味は、前半で4対0と日本がリードした時点で終わったが、その後、この試合を観ていて私が気になったのは、代表選手の誰ひとり奇抜な髪型や強烈な金髪の選手がいなくなっていたことだ。
     茶髪の選手がいたかどうかまでは正確に分からないが、ピッチに出ている選手はほとんどが黒髪の選手たちだった。
     キャプテンの吉田麻也(サンプドリア)を筆頭に、ヨーロッパで活躍する日本の選手たちは、みな黒髪でプレーしているのだ。

     かつては代表戦になると金髪の選手が何人か必ずいた。
     中田英寿さんや本田圭佑選手を思い出す人も多いだろう。戸田和幸さんや稲本潤一さんも目立っていた。そして元祖と言えば、やはり「カズ」こと三浦知良選手だろう。
     それは代表だけでなく、国内のJリーグの選手たちにも同じことが言えた。各チームに必ず奇抜な髪型や金髪でアピールする選手がいた。

     ところが今は、そうした選手たちをほとんど見かけることがなくなった。
     どうしてか?
     ミャンマー戦の後半を見ながら考えていたことは、そのことだった。

     ひと言で言えば、日本の選手たちの実力が評価されて、髪型や髪の色でアピールする必要がなくなってきたのだろう。もちろんそこには、個人のキャラクターとして自己顕示欲が強い選手たちがいたことも確かだろうが、かつてはみんなが目立とうとしていたような気がする。競争が厳しいヨーロッパのクラブで、髪型や髪の色でも存在を主張する。またそうしたことでサポーターの印象にも残りたい。あるいは、ヨーロッパの風土やクラブへの同化の意識も働いていたのかもしれない。

     いずれにしても、かつて金髪で戦っていた選手たちは、試合の中だけでなく、ヨーロッパの文化や日本サッカーへの評価とも戦っていたのだろう。
     それがそうした先人たちの頑張りもあって、今は日本人選手として、ありのままの姿で自分を表現できる環境が整ってきたのだ。だから、多くの選手は、黒髪であることに誇りを持って、日本人として戦っている。あるいは、そうしたボーダー意識がなくなって、多様性の中で自分らしい個性を発揮する局面に入っているのかもしれない。

     冒頭に書いた通り、些細なことだが、選手たちの心境や置かれた環境は、きっとこうしたところに現れるのだろう。

     まだまだ、世界の強豪との差はあるが、多くの選手が海外に活躍の場を求める今、選手たちの意識における差、あるいはコンプレックスのようなものは、どんどんなくなってきている。
     金髪の絶滅は、そのことを表している気がする。

    青島 健太 Aoshima Kenta

    昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
    慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
    同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
    5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
    オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
    現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。

    バックナンバーはこちら >>

    関連記事