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vol.43 突然舞い込んできた、球界に大きな影響を示した方々の訃報

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    柳本 元晴 Yanamoto Motoharu
    フリー・スポーツ・ジャーナリスト
    立教大学卒業/週刊ベースボール元編集長

    広島県出身。1982年に(株)ベースボール・マガジン社に入社。週刊ベースボール編集部にて、プロ野球、アマチュア野球などを中心に編集記者を務める。91年に水泳専門誌(スイミング・マガジン)の編集長に就任。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪を現地にて取材。98年、創刊されたワールド・サッカーマガジン誌の初代編集長を務めたのち、99年3月から約10年間にわたって週刊ベースボール編集長を務める。2014年1月に(株)ベースボール・マガジン社を退社。フリーとしての活動を始める。2012年からは東京六大学野球連盟の公式記録員を務めている。

    まだまだご活躍が期待されていただけに、実感もない


     シルバーウイークの間に、日本の野球界に大きな影響をもたらせていた二人の方がお亡くなりになった。
     訃報は、いつも急にやってくる。
     みなさんもすでにご存知だと思うが、阪神のGMを務めていらした中村勝広さんと、プロ野球選手会の事務局長だった松原徹さん。お二人とも、まだまだお若いし、急な逝去だったため、なんだか実感がない。
     阪神、オリックスで監督、GMを務めていらした中村さんのことは、表舞台に出ていることも多かったし、ファンの方にとっても、現役時代のプレー、監督としての姿など、直接、その活躍を目にする機会も少なからずあったと思う。GMとして、阪神の優勝のチャンスを目前にしながら、そのゴールを目にすることなく、ご逝去されたことは、ご本人にとっても、無念の思いがあるのではないかと思う。
     急な失速で優勝は遠のいた感はあるが、阪神の選手たちよ、このまま消沈してしまうようなことがあっては、まさに「男がすたる!」 最後の意地を見せてほしいものだ。
     松原さんは、私の1歳下。選手会の事務局長として東奔西走し、選手の、というか日本プロ野球界のピンチを救う活躍をされたと思っている。
     プロ野球選手会の会長といえば、初代の中畑清さんから始まって、あの初めてストライキを起こした時の古田敦也さんや、最近では新井貴浩選手、嶋基宏選手らの名前が上がるが、その歴々の会長を支える形で、実質的に動かしていたのが、事務局長の松原さんだったのである。

    週刊ベースボール誌で“共闘”した懐かしいやり取り

     週刊ベースボールの読者の方で、今このコラムを見てくださっている人が、どれくらいいらっしゃるか、わからないが、たしか、1年ちょっと前まで、「選手会通信」の名で1ページ、選手会の開催するイベントの紹介や、選手会の考え方、今選手会が何をしようとしているか、などなど、毎週、読者の皆さんに提供していた。
     その選手会通信を週刊ベースボール誌上で連載するという決断をしたのが、当時、編集長を務めていた私と、選手会の事務局長の松原さんだった。
     実は当時、「選手会」に拒絶反応を示す球界関係者は少なくなかった。
     一方でそれは、それだけ選手会の動きに注目が集まっているという証拠でもあるし、何より、私自身が、読者の皆さんよりも、少しでも早く、選手会の情報を知りたいという気持ちもあった。
     「やろう!」担当に指名したS記者にゴーサインを出し、松原さんとも、変な遠慮はいらないから、書きたいことを書いてくださいというような話をした記憶がある。
     良くも悪くも、長く球界と付き合ってきた週刊ベースボールは、簡単に言えば保守的であり、時に「旧態依然」、「十年一日の編集方針」と批判を受けたこともある。そんな週刊ベースボールが、当時“革新的”な活動で球界に新風を送り込んでいた選手会の連載を始めたことで、今度は一転して、「ベースボールは選手会寄りか」と、批判を受けたこともある。各球団関係者からもそういう声が上がっていた。

     しかし、しばらくして、近鉄バファローズがなくなり、あわせて1リーグ制への動き、球界再編も噂に上った。果てはストライキ……。
     日本プロ野球界も、何かを替えようという空気があった。いわば『時代』だったのである。
     私自身、連載を一つ始めただけで「選手会寄り」の批判には閉口したが、個人的には、球団のお偉方の考え方よりも、選手会側の意見の方が共感できる部分は多かったように感じた。
     そういうやりとりを経て、当時は、間違いなく、「球団側」、「オーナー側」の立場にいた巨人の清武代表にインタビューしたこともあるし、その流れから、清武代表が、週刊ベースボール誌上でコラムを持つことにもなった。
     その二つを、ぶつかり合うようなテーマの時に、あえてページを並べて置いたことも少なくない。
     もちろん、正統な野球の話題(ここでいう正当な野球の話題とは、誰が投げた、誰が打った、どこが勝った、というようなグラウンドで起きる野球のこと)を提供することが週刊ベースボールの使命と考えていたが、一方で、当時は欠くことのできない話題の一つが、選手会と巨人の渡邉恒雄オーナーをはじめとする球団の経営側の意見を掲載することだったと、今でも思う。
     他人から見ると、取るに足らないことかもしれないが、私にとっても、それは冒険で、停滞していた、当時の週刊ベースボールに、これはこれで風穴を開けることができたのではないかと、一人ほくそ笑んでいたりもした。
    連載を続けている間に、球場内外で、しばしば松原さんに会う機会があった。
     松原さんは、「週刊ベースボールに連載ページを持つことで、自分たちの考え方を披瀝することができて、大きな影響を生んでいます」と感謝する言葉を私にかけてくれていた。
     特徴の一つでもあった松原さんの、浅黒い顔色が日焼けのせいであって、体調を悪くしてのそれでなければいいけどなと、内心思っていたが、58歳での早逝を思うと、あの頃から、身を削るような思いをしながら、頑張っておられたのかもしれない。
     私も5年前には週刊ベースボール編集部を離れ、2年前には社からも離れたため、ここ数年、松原さんにお会いする機会はなかったが、まだまだ道半ばであったのでは、と思うと辛い。
     同世代の友人との別れは、かくも悲しい。
     ご冥福をお祈りいたします。
     合掌。

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