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vol.24 日本では、野球が春の訪れを知らせてくれる

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    柳本 元晴 Yanamoto Motoharu
    フリー・スポーツ・ジャーナリスト
    立教大学卒業/週刊ベースボール元編集長

    広島県出身。1982年に(株)ベースボール・マガジン社に入社。週刊ベースボール編集部にて、プロ野球、アマチュア野球などを中心に編集記者を務める。91年に水泳専門誌(スイミング・マガジン)の編集長に就任。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪を現地にて取材。98年、創刊されたワールド・サッカーマガジン誌の初代編集長を務めたのち、99年3月から約10年間にわたって週刊ベースボール編集長を務める。2014年1月に(株)ベースボール・マガジン社を退社。フリーとしての活動を始める。2012年からは東京六大学野球連盟の公式記録員を務めている。

    キャンプイン間近。春はもうすぐそこまで


    年が明けてもうひと月が経とうとしている。プロ野球キャンプが始まるのももうすぐだ。
    以前の職場では、この時期は、選手名鑑号の作業に追われる一方で、当時は1月末に発表があったセンバツ高校野球の展望号も重なり、オーバーではなく、まさに寝る間を惜しんで作業を続ける日々だった。
    今もきっと、大変忙しい時期であることは間違いないが、センバツ高校野球の出場校発表は先週(23日)に終わっているし、作業そのものも、かつてのように、ネガやポジフィルムを切り出してはレイアウトを決めるという作業をするわけではない。
    たぶん、今、実際に作業をしている人は、ため息の一つも吐きながら作業をしていると思うが、あえて先輩面をさせてもらって言えば、昔の作業に比べれば、はるかに楽な作業になっていると思う。
    私が元いた会社のみならず、昨今、選手名鑑は多くの会社から発行されているが、おそらく作業は、そんなには違わないはず。どこも大変だとは思うが、昔はもっと大変だったんだろうね、などと思いながら仕事をすれば、少しは楽になれるのではないか。みんな頑張れ〜。
    キャンプが始まって、ユニフォームに身を包んで躍動する姿を見ると、春近しを思う。今はあまり使われなくなったが、センバツを主催する毎日新聞社では、キャッチフレーズとして「春はセンバツから」とうたっていた。毎年、あたりまえのように、目に耳にしていたので、特別な感慨はなかったのだが、逆にあまり目にする機会がなくなった今のほうが、なかなかいいキャッチフレーズだったな、と思うことが多い。

    あらためて「センバツ」が“春告げ鳥”の役目を背負わなくなった理由を考えてみると、一つにはプロ野球の開幕日が3月末(今年は27日)と早くなり、センバツの開幕日(3月21日)とそれほど差がなくなったことが挙げられると思う。
    今年で言えば、わずか6日しか違わないんだもの、「春はセンバツから」と言われたって、それほどの実感はないでしょ。さらに、3、4年に一度は先にWBCもやっているし、センバツ=春告げ鳥という感覚は、明らかに薄まっているということなのでしょう。
    ちなみに“春告げ鳥”というのは、ウグイスのこと。春になると「ほーほけきょ」とウグイスの鳴き声がよく聞かれるので、そう呼ばれるようになった。ヨーロッパでは、ツバメが春告げ鳥と伝えられる。「ヤクルトじゃん!?」、プロ野球ファンなら、そういう発想になるかな。

    球春到来の前に届いた個性派選手の訃報

     その春の到来を待たずして1月、プロ野球OBの訃報が伝えられた。中でも、その若さゆえに驚いたのは、中日などでプレーされた大豊泰昭さんの死去だった。51歳。現役時代の姿がうそのように、報道されたその写真は、痩身の姿だった。
     当時の日本プロ野球界は、MLBを経験した“助っ人”たちが減ってきて、その眼はアジアの野球界に向けられていた。大豊さんと同じ台湾からは、先に郭泰源(西武)、荘勝男(ロッテ)らの投手が活躍。打者では大豊さんのほかには、巨人に在籍した呂明賜らが活躍していたことが、まだまだ記憶に新しい。
     大豊さんは、本名を陳大豊といい、王貞治さんにあこがれ、日本プロ野球を目指して、名商大に留学し、愛知大学リーグで活躍。ドラフト2位で中日入りした。
     当時はまだ一本足打法を取り入れていなかったが、プロ入り後、臨時コーチを務めた張本勲さんの勧めもあって、一本足打法に転向。その後、その甲斐あってか、94年には本塁打、打点の2冠に輝いた。
     その後、ナゴヤドームに変わった際に、当時の星野仙一監督が機動力野球を目指したことから、矢野輝弘とともに、関川浩一、久慈照嘉とのトレードで阪神に移った。

     移籍後の大豊は、01年中日に復帰後も含めて、ユニフォームを脱いだ2002年まで、年間100試合の試合出場を達成することができず。尻つぼみの成績に終わってしまった。
     引退後、中華料理の店を開いた大豊さんが、急性骨髄性白血病で苦しまれているというのは、以前から知っていた。発症が2009年ということなので、私が会社でまだ野球関連の仕事をしていた頃。引退後、愛知県で中華料理のお店を開いておられるということで、当時の編集部のスタッフが取材させてもらったこともあった。
     現役選手生活中、特に晩年は、成績が思うように上がらないこともあって、悩んでいる姿が印象的だった。さながら求道者という印象だったが、ユニフォームを脱ぎ、お店を始められた大豊さんは、お客さんとも気さくに会話を交わす、優しいおじさんだったと、取材を担当していた部員は言っていた。
     その大豊さんの訃報から3日後、今度は近鉄バファローズなどで活躍された元投手、井本隆さんの訃報が飛び込んできた。井本さんといえば、強く印象に残っているのは79、80年と2年続けて広島と近鉄が戦った日本シリーズ。特に79年の第7戦の「江夏の21球」は日本シリーズの名場面として語り継がれている。
     その2年間、近鉄のエースは、通算317勝を挙げた鈴木啓示投手ではなく、井本投手だった。ペナントレースで2年続けて15勝を挙げた井本投手は、日本シリーズでは2年続けて第1戦の先発マウンドに立ち、シュートを武器に広島打線を苦しめた。79年は敢闘選手賞に選ばれるなど、その投球は西本幸雄監督の期待にしっかりと応えたと言って間違いないだろう。
     83年にヤクルトに移籍して、わずか2年でユニフォームを脱いだ。日本シリーズでのさっそうとした投球からわずか4年での引退は、早すぎると思ったが、聞けば私生活でさまざまな悩みを抱えられていたとのこと。今は、ご冥福を祈るばかりだ。
     仕事でも関わり、一野球ファンとしての視線の先にあった選手たちが、まだまだ年齢の往かないのに、早逝されたというニュースは、あまりに寂しい。

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