【Vol.11】プロ野球のセカンドキャリアを考える 元巨人左腕・柴田章吾さんが実現させた「アジア甲子園」

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■引退後、就職活動からスタートした第2の人生

 華々しいプロ野球の世界に入り、10年、15年と長くプレーできる選手は一握り。そこに入るために野球一筋でいると、なかなか次のキャリアに進む一歩が踏み出せないケースも多い。8月20日、多くのクライアントやメディアの前で堂々とスピーチをする一人の元巨人左腕の“晴れ姿”を見に行こうと、都内の会見場に向かった。柴田章吾さんは、緊張はしていたが、その姿は私にとっては輝いて見えた。

 柴田さんは愛知の名門、愛工大名電で甲子園に出場し、明治大学を経て、2011年の育成ドラフト3位で巨人に入団。1軍登板はなく、2014年に現役を引退した。子どもたちに野球を教えるジャイアンツアカデミーの業務に携わり、1年後は大学新卒者と一緒に自ら就職活動して、外資系コンサル大手のアクセンチュアに入社。ビジネスを学び、独立した。

 経営者となってもビジネスコンサルの業務は順調だった。一方で叶えたい夢があった。語学留学のために渡ったフィリピンで東南アジアの子どもたちに野球を教えていたときのこと。英語を教えてもらう代わりに野球を教えていた。スポンジのように吸収する現地の子どもたち、そして、その輝く目に心を奪われた。いつしか、東南アジアの子どもたちの野球普及をしていきたいと思うようになった。

 コンサルティングの仕事しながらも夢へ向かって走り出した。野球アカデミーの設立だけでなく、東南アジアの国々を集めた、国際大会の開催を夢見た。決して環境としては恵まれていない、野球における夢や目標が持ちにくい状況であることは理解していた。だからこそ、自分の手で、目指せる場所を作りたい。そう思えた。

 柴田さん自身が、中学3年生の頃から国指定の難病「ベーチェット病」を患い、野球を断念するように言われた時期もあった。しかし、甲子園の出場の夢が自分を奮い立たせてくれた過去がある。「僕は病気で先が見えなかった時に、甲子園に出られれば人生のこの先が切り開けると思って頑張ることができました」。目標の大切さと野球や甲子園大会の魅力を、自身の経験の経験をもとに伝えていきたいと考えていた。

 そして、今回。東南アジアの若者へ向けた「アジア甲子園」の企画発表を行なった。2024年12月、インドネシアのジャカルタで開催される。今回はジャカルタの14歳から18歳を対象とした8チームによる大会だが、将来的には各国に参加は広げていきたい意向。ただ、野球大会を開催するのではなく、日本の高校野球の文化を“輸出”したいと、ブラスバンド応援も実施する。第1回では主催側が選抜した日本代表チームとジャカルタ選抜が対戦するエキシビジョンマッチも開催する。日本の良き文化とプレーのレベル高さを現地で披露して、魅力を届けていくという。

 会見場に協賛スポンサーや多くの支援者が参列し、この大会の成功を願っていた。柴田さんが中心となって活動し、賛同者が多数集まったことは彼の努力の賜物だろう。現役時代からひとつの壁にぶつかっても、違うアプローチはないのかと試行錯誤していた。わからないことがあれば、年齢やキャリア関係なく、頭を下げて意見を求めてきた。そのような謙虚であり、好奇心の強さが間違いなく今も変わらず生きている。

 私が柴田さんと初めて会ったのは、巨人の球団事務所で行われた入団会見。プロとなった“入口”の部分だ。戦力外になったときや、球団で再びキャリアを歩み出したとき、球団を出た時など、プロ野球に別れを告げる瞬間、いわゆる“出口”も見てきた。あれから約10年の時間が経ち、この記者会見で堂々とマイクを握る姿を見て、プロ野球選手のセカンドキャリアの成功例を見た。同時にスポーツの力は人々の心を動かすことができることを実感した。

楢崎 豊(NARASAKI YUTAKA)
2002年に報知新聞社で記者職。サッカー、芸能担当を経て、2004年12月より野球担当。2015年まで巨人、横浜(現在DeNA)のNPB、ヤンキース、エンゼルスなどMLBを担当。2015年からは高校野球や読売巨人軍の雑誌編集者。2019年1月に退社。同年2月から5つのデジタルメディアを運営するITのCreative2に入社。野球メディア「Full-Count」編集長を2023年11月まで務める。現在はCreative2メディア事業本部長、Full-CountのExecutive Editor。記事のディレクションやライティング講座、映像事業なども展開。

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