自動車学校で勤務する元巨人投手 林昌範がセカンドキャリアなどについて今の選手に伝えたいこと(インタビュー全3回) #1
■林昌範さんはプロ野球解説者と千葉・鎌ヶ谷自動車学校勤務に汗
――現役生活16年を終えて、自動車学校勤務に転身。その経緯を教えてください。
「私の実家が、自動車学校を経営していました。小さい頃から父親には継いで欲しいと頼まれていましたが、僕はプロ野球選手になりたかったので夢を貫きました。現役引退した後、父の希望もあって、勤務することになりました」
――最初は大変だったのではないですか?
「野球しかやっていないですからね。現役選手は不安になると思いますが、そんなことはないですよ、と言いたいですね。自分は簿記やパソコンの勉強を引退してから始めて、会社の経理、経営についての知識を得ています。野球をやってきたという自信はみんな持ち続けてほしいです」
――プロ野球生活で得られたことも大きかったのではないでしょうか?
「自分は人に恵まれた野球人生だったと思います。高校卒業して巨人に入ったのですが、当時の2軍監督だった高橋一三さんに本当にお世話になりました。亡くなってしまいましたが、僕の中では大きな出会いとして今も生き続けています」
――巨人の左腕としても活躍した往年の名選手でもある高橋2軍監督との思い出を教えてください。
「ドラフト7位で高校(千葉・市立船橋)から入団したのですが、直球も簡単に打たれますし、自信を持って投げられるボールがなく、2軍の試合でも通用しなかったんです。高橋2軍監督にまずは基礎体力作りを命じられ、個別で、居残り練習にも付き合ってくださいました」
――その中でも印象に残っている出来事、言葉は何でしょうか?
「1年目から誰よりも練習のグラウンドに最後まで監督といましたね。ほったらかしにされることなく、一年間、地道な基礎練習をやってくださったことが本当によかったです。体もしんどかったですが、試合では到底、投げられるレベルではなかったので、そこに気づくことができ、受け入れることで一歩目を踏んだ感じです。あとは『人のミスを喜ぶな』とよく言われました」
■恩人から言われた言葉「自分がどうあるべきかを考えなさい」
――具体的に言うと?
「同じチームの投手が試合で打たれた時に『次、僕、チャンスありますかね?』と監督に聞いたことがありました。自分の意識が相手に行くよりも、自分がどうあるべきかを考えなさい。そうしないと足をすくわれる、と。監督との時間がなかったら、その後、1軍に上がることはなかったと思います」
――人との出会いが大きいですね。
「言われた時はすぐに理解はできなかったのですが、1軍に上がって、ある程度、試合に投げられるようになってからよくわかりました。生き残るためにはどうしたらいいかと考えた時に、相手ではなくて、勝負するのは自分だ、と。こういう意味で言ってくれていたんだと思いました。自分も一三さんのようになれるかどうかはわかりませんが、そういう立場にならないといけないと思いました」
――2003年から2015年まで3球団、合計421登板。リリーフ投手として活躍しましたが、1軍のマウンドはどんな場所でしたか?
「もう戻ることはできませんが、あれだけの興奮と不安で自分の気持ちがぐちゃぐちゃになることはもうないんだなと思います。その一瞬が勝負ですし、その瞬間に結果が出る仕事。あの感情というものはなんとも言えないです」
――現役選手に伝えたいことはありますか?
「ユニホームを脱げば、あんなに興奮することはないので、簡単に後悔をして欲しくないですね。つまらない表現かもしれませんが、あれだけ光が当たる場所はもうないよ、と。スーツを毎日、着ている身だからそう感じますね。あとは、プロ野球選手というのは、周りの人が時間を使ってくれる。そういう部分では今の時間を疎かにすることなく、充実した時間に充ててほしいなと思います」
林 昌範(はやし・まさのり)
1983年9月19日、千葉・船橋市生まれ。市船橋高から2001年ドラフト7位で巨人入団。186センチ、80キロの長身から投げ下ろす直球やフォークを武器に、主にリリーフとして活躍した。08年オフに日本ハムにトレード移籍。2012年からDeNAでプレーし、2017年で引退。通算成績は421試合、22勝26敗22セーブ、99ホールド、防御率3.49。左投左打。家族はフリーアナウンサーの京子夫人と1男1女。