HERO'S COME BACK~あのヒーローは今~

三井康浩#2
「侍ジャパンを世界一に導いた頭脳 忘れられないミーティングとイチローの決勝打」

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    巨人と侍ジャパンを頂点に導いた分析のプロ 伝説のスコアラー・三井康浩の野球人生(インタビュー全3回)#2
    元巨人の外野手、スコアラーとして活躍した三井康浩氏は2009年のWBCの侍ジャパンのチーフスコアラーでもあった。現役時代から巨人の一員として戦ってきた原辰徳監督からオファーを受け、侍の分析班となった。重圧の中、どのようにしてチームをまとめ、世界一へと上り詰めたのか。決勝の韓国戦のベンチで起きたイチロー選手との会話にも迫る(第2回)
     

    伝説のスコアラーと呼ばれた三井康浩氏、侍ジャパン編

     三井氏は巨人軍のスコアラーを1986年から2007年まで務めた。スコアラーの後は球団フロントとして編成やスカウト、外国人獲得に尽力した。その鋭い目でマイルズ・マイコラス投手(現カージナルス)らを獲得。原辰徳監督を支え続けた。名将とは忘れられない時間を過ごしてきた。

    「2008年だったかと思います。来年(2019年)にWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)があるけど監督は誰になるんだろうと最初は漠然と思っていました。原監督になると聞き、一人のファンとして楽しみにしていました」

     2008年はリーグ連覇を果たし、巨人はハワイへ優勝旅行に出掛けていた。当然、三井氏も参加。旅行を普通に楽しむ姿を原監督に驚かれたのだった。三井氏の頭の中は?マークが付いていた。

    「私は腎臓が悪く、23歳で現役引退をしました。週3回、人工透析を受けないといけません。もちろんハワイでも受けることはできますから、海外とはいえ、V旅行にはいくわけです。そうしたら監督が驚かれて…次のWBCのスコアラーを三井にお願いしたいと言っていただけたそうなのですが、透析をしないといけない体だから日本から出ることは難しい、配慮しないといけないという理由で断られた、と。海外でも治療はできるから問題はないですと説明させていただきました」

     原監督の行動は早かった。すぐに三井氏のスコアラーをチームに打診。正式なオファーが届いた。そこから日本や対戦国、地域を分析する日々が始まった。

    「集まる選手はメジャーリーガー、日本で活躍している選手ばかりです。イチロー選手、城島選手、松坂投手に福留選手…。いくら私が巨人の分析で実績があっても、彼らの方が海外のチームの情報を知っています。でも、スコアラーとして自分がやってきたポリシーに選手を絶対に迷わせないというものがあります。その瞬間に、最適なアドバイスを思い切って、言うことを決めました」

     韓国とは決勝で当たるまで、何度も対戦をした。最初の対戦は3月7日の東京ドーム、第1ラウンドの第2戦だった。北京五輪で星野ジャパンが苦しんだ日本キラーの左腕、キム・グァンヒョン(金廣鉉)が先発した。ここで三井氏の読みが当たる。

    「同じ失敗をするわけにはいきませんから。私が指示をしたのは彼が一番得意として、五輪でも日本がやられたスライダーを狙って行けということでした。投手にとって得意球を狙っていけば、その数は減っていくし、日本の高いレベルの打者ならばそれだけ狙って行けば攻略するのではないかと考えました」

     初回。1番打者だったイチロー選手が直球を見送り、スライダーを捉えて、ライト前にヒット。この一打が大きかった。2番打者以降も徹底してスライダーを叩き、打線が繋がった。序盤に大量の8得点。見事に打ち崩したのだった。

    「選手たちには真ん中から変化してくるスライダーはボールになる、なども伝えていましたね。ただ、やっぱりあれだけの選手たちだからできたことだと思いますよ。これで韓国サイドは『日本はキム・グァンヒョンの癖が分かっている』となったので、ラッキーでしたね。投手は混乱したでしょうね。癖なんて全然わかっていなかったので」

    2009年WBC決勝戦、韓国戦でイチローに「何を狙えばいいですか?」

     世界一に向けて、一丸となった。第2ラウンドでキューバと対戦。メジャーでも活躍するチャップマンが先発だった。160キロを超えるスピードボールを投げる長身左腕を攻略するためにはどうするか。選手を迷わせないために、思考を巡らせた。

    「選手たちには高めを思い切って、捨てさせました。ストライクを取られてもいい高さのものも、手を出さないように指示しました。高めに浮いてくる威力のある球は打つことが難しい。ヘルメットを深く被り、高めのボールが視界に入りにくくなるようにしてもらいました。実際にやってくれるか不安でしたが、選手たちはやってくれましたね」

     侍ジャパンは制球の定まらなかったチャップマンの球をしっかりと見極め、四球でチャンスメークした。塁に出れば、盗塁をする仕草を見せて揺さぶった。その動きが左腕を惑わせた。チャップマンは不安定なピッチングになり、3回途中で降板。エースを引きずり下ろし、二番手投手以降を見事に攻略。6-0で勝利した。

    「米国戦でも投手陣の癖を見抜くことができたので、メジャーリーガー相手でも打ち崩すことができました。決勝戦はまたしても韓国だったので、キューバや米国のようにはいきません。この試合は試合前に具体的な指示はしませんでした」

     原監督からもここまできたら選手に一任しようという話になった。メンバーが大会を通じて、感じたことを尊重し、正解を導き出すことを願った。試合はシーソーゲームの様相。3-3で、延長10回を迎えた。マウンド上では韓国のクローザー、イム・チャンヨン(林昌勇)が投げていた。2死一、三塁になり、勝ち越しのチャンス。打席にはイチローが入ろうとしていた。

    「イチロー選手はこの試合まで不振でした。見たことがないような姿でした。決勝戦の大事な場面で、打席に入る前、イチロー選手は私に『僕は何を狙えばいいですか?』と意見を求めてきたのです。イチロー選手が私に聞いてきたのは、この時が初めてでした」

     大会中、何も言わず、指示通りにプレーしてくれていたイチローがクライマックスに聞いてきたことに三井氏も驚きを隠せなかった。

    「思わず、『え? この場面で? 俺に聞く?』って動揺してしまいましたよ。ただ、選手が自分に聞いてきたときは迷わせないこと、考える時間を与えないことをポリシーにしていたので、ここはシンカー(狙い)だけでいいと言いましたね」
     
     シンカーは、林昌勇の勝負球。韓国屈指のクローザーがイチローに対して、一番自信のある球を投げてこないはずがないと分析した。そう伝えるとイチローをバッターボックスへ送り出した。

    「イチロー選手から、それに大事な局面で頼りにしてもらえたのはうれしかったですね。左打者のイチロー選手に対しては外に逃げていくシンカーは有効なボールですから、最後はそれで仕留めてくるに違いないと考えました」

     初球は直球でボール。2球目も直球でストライク(一塁走者が盗塁し、2死二、三塁に)。イチローはその後もボールを見極め、追い込まれるとゾーンに入ってきた直球はカット(ファウル)。狙いは変えず、8球目、高速シンカーを捉えて、センターに弾き返したのだった。2点タイムリーとなり、5-3で日本が勝利を収めた。

    「大会を通じて、結果が出ていたことで選手みんなが私のことを信じてみようかなという気になったのだと思います。最初に韓国エース・金を攻略できたことが大きかったですね。イチロー選手も調子は悪かったんですが、ずっと一人、室内で打っていたこともありましたから。イチロー選手の努力に報いたいという気持ちでした」

     2023年も侍ジャパンは、この時以来の世界一を奪還した。それも2009年の経験があったからこそ、達成できたことは間違いない。

     
    (第3回に続く)

    三井康浩(みつい・やすひろ)

    1961年1月19日、島根県出身。出雲西高から78年ドラフト外で巨人に入団。85年に引退。86年に巨人2軍サブマネジャーを務め、87年にスコアラーに転身。02年にチーフスコアラー。08年から査定を担当。その後、編成統括ディレクターとしてスカウティングや外国人獲得なども行った。2009年にはWBC日本代表のスコアラーも務めた。現在は東京・足立区のフィールドフォースボールパーク2で野球スクール「Sou Baseball Clinic」を開講中。多くの中学生が集まり、名門高校へ送り出している。

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