HERO'S COME BACK~あのヒーローは今~

三井康浩#1
「巨人でもV、侍ジャパンでもV 分析のプロ・三井康浩が伝説のスコアラーになるまで」

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    巨人と侍ジャパンを頂点に導いた分析のプロ 伝説のスコアラー・三井康浩の野球人生(インタビュー全3回) #1
    元巨人の外野手、スコアラーで2009年のWBCにも侍ジャパンのチーフスコアラーでもあった三井康浩氏は、多くの名選手にアドバイスを送ってきた。ヤンキースなどで活躍した松井秀喜氏や元巨人監督の高橋由伸氏、現監督の阿部慎之助氏らが信頼を寄せた。今は指導者として野球に関わっている。三井氏にこれまでを振り返ってもらった(第1回)
     

    ■伝説のスコアラーと呼ばれた三井康浩氏の歩み

     三井氏は島根・出雲西高から1978年にドラフト外で巨人に入団。しかしプロ入り6年目、健康診断で腎臓疾患であることが判明し、現役を引退することになった。

    「将来を夢見て、プロ野球の世界に飛び込んだのですが、目標がなくなってしまいました。まだ23歳です。その年のオフ、チームの仕事を手伝って欲しいと球団からオファーを受けました」

     最初の仕事は2軍のチーフマネージャー。その後、スコアラーを任されることに。スコアラーとは野球の試合を見て、分析や情報収集をする仕事。当時はピンと来なかったが、このオファーが三井氏の人生を変えた。

    「ベンチの中にスコアラーがいることは今でも当たり前になっていますが、私にとってレジェンドのような存在だったのが小松俊広さんという方です。小松さんに学びながら、スコアラー人生がスタートしました」

     球場に行って、ビデオを回しながら、相手チームのことを分析する。気づいたことをメモに書き記した。対戦カードの一つ、二つ前のチームのデータをチームに付いている別のスコアラーに提出し、それに基づき、選手たちが試合前にミーティングをする。

    「そのうち、成果が認められて、チーム付きのスコアラーになりました。本拠地も遠征も全て1軍選手たちと一緒です。データをまとめて、監督やコーチ、選手に伝えるのが主な仕事なのですが、これがしんどかったですね」

     自分自身は選手として1軍の経験がないため、試合前にどのようなミーティングをしていたかなどはわからない。迎えた公式戦。当時は篠塚利夫氏(和典)や中畑清氏、原辰徳氏らスター選手が巨人には在籍していた。

    「全く選手たちに聞いてもらえなかったんです。結果を残している選手が私の話を聞くはずがないですよね…」

     途方に暮れていても仕方がない。三井氏は先輩スコアラーでもある小松氏に聞いた。どうすれば、選手たちは聞いてくれますか?

    「選手がお前の話を聞いてくれないのは、聞いてくれるような内容じゃないからだ。選手が聞いてくれるようなミーティングをしないといけない、というようなことを言われました。厳しい言葉でしたが、選手が知らない、自分しか知らないことを集めてこないといけないんだ!と決意しましたね」

    ■長嶋茂雄(巨人終身名誉監督)が2度目の指揮で転機

     先乗りスコアラーからやり直して、徹底的にデータを集めることにした。日本一のスコアラーになることを目指し、再スタート。“研修”には長い時間がかかったが、少しずつ、ミーティングの内容が認められるようになってきた。

    「私が入団した当初は長嶋茂雄監督だったのですが、そのミスターが2度目の監督を1993年から務めることになりました。その少し前からチーム付きスコアラーに戻っていたので、一緒に戦うことになりました」

     多くの野球ファンが知る1994年の「10・8」決戦。勝った方がリーグ優勝という中日戦。シーズン後半、チームが打撃不振に陥り、失速していたのは明らかだった。

    「中畑清さんが打撃コーチだったのですが、なかなか打開策が出ない状況でした。すると、あの試合の前に私主導でミーティングをするように指示を受けたのです」

     コーチを差し置いて、スコアラーという裏方が選手たちに指示を出すのは慣例になかった。三井氏は相手エースの今中慎二投手の変化球の癖を盗んでおり、それを選手に伝えた。松井秀喜氏や落合博満氏を中心とした打線が奮起し、試合に勝利。見事、優勝を飾ったのだった。

    「その頃くらいから、スコアラーの地位が上がってきました。長嶋監督からはベンチにいなさいと、試合中にベンチに入ることになったのです。ゲームの中で相手を分析して、選手に気づいたことをすぐに伝えるようになりました」

     当時、巨人のベンチには松井秀喜氏がいた。長嶋監督と松井氏が暗闇の中で素振りをしていた話は有名だが、実は三井氏もその部屋に呼ばれたことがある。

    「長嶋監督は松井選手の素振りの音でいいスイングか悪いスイングかを判断できていたんです。最初は全く違いがわからなかったんですが……」

     三井氏は松井氏に「本当に違いがあるの?」と尋ねた。すると「それがね…当たっているんですよ」と松井氏が納得したスイングと、ミスターが良い音とする瞬間がマッチしていると伝えられ、驚いた。

    「いい音がしたと言われた時は、振り抜けた感じがあるんですと言っていました。すると次第に私もわかるようになってきたのです。いい音は“ピュッ”と高い音。悪いときは“ブーン”と。音が鳴る場所も違う。いい音がするときの場所はいつも決まっていましたね」

    ■高橋由伸、阿部慎之助の成功の裏にも三井氏の存在があった

     1998年から2015年まで巨人の主軸打者として活躍した高橋由伸氏とは“二人三脚”でフォームを作ってきた。練習量の多さに驚かされてきた。

    「ホームゲームの場合、私の自宅に寄って打撃フォームなどをチェックしてから東京ドームへ向かうことが習慣になっていました。試合後も頻繁にきていましたね」

     グラウンドでも試合前の打撃練習でトスを上げる場面もよく見られた。2人にとって思い出の試合は2007年の開幕戦、敵地での横浜との先頭打者アーチ。前夜、話し合って、相手エースの三浦大輔投手(現DeNA監督)の外角スライダーを狙うことを決めた。

    「初球からガンガン打っていくタイプですが、緊張しやすいタイプでもあります。初球の球種がわかれば、気が楽になると思い、前日までに決めました。三浦君は初球でストライクが欲しいはずなので、積極的な高橋君には、真っ直ぐはない。左打者の外、スライダーできっとくるとね」

     見事にハマり、このシーズンでは35本塁打を記録し、チームもリーグ優勝を果たした。他にも阿部慎之助氏へは入団当初から助言し、大打者へ礎を築いた。

    「阿部選手は本当に身体が柔らかい。関節という関節が全部、柔らかいんです。ハンドワーク、ボールをとらえる感性は素晴らしいものがありました。性格的にも小さいことは気にしないですし、明るいし、全然、物怖じもしない。打者にとってはいい要素をたくさん持っていました」

     これまでも多くの巨人の偉大な打者を見てきたが、阿部氏が松井氏や高橋氏より優れているものがあるという、

    「ボールへの対応力ですね。内外角のさばき方は素晴らしかった。厳しいところをつかれても、払い打ちができました。その部分に関しては一番能力が高かったですね」

     巨人で長く、スコアラーとして従事した男を一番高く評価していたのは原辰徳前巨人監督だった。2009年、三井氏は原監督とともに侍ジャパンの一員として戦うことになる。

     
    (第2回に続く)

    三井康浩(みつい・やすひろ)

    1961年1月19日、島根県出身。出雲西高から78年ドラフト外で巨人に入団。85年に引退。86年に巨人2軍サブマネジャーを務め、87年にスコアラーに転身。02年にチーフスコアラー。08年から査定を担当。その後、編成統括ディレクターとしてスカウティングや外国人獲得なども行った。2009年にはWBC日本代表のスコアラーも務めた。現在は東京・足立区のフィールドフォースボールパーク2で野球スクール「Sou Baseball Clinic」を開講中。多くの中学生が集まり、名門高校へ送り出している。

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