#1 難病でもプロになれた理由 #2 巨人に入って掴めなかったチャンス
元巨人投手・柴田章吾さんが描く夢 東南アジアで叶えたい夢 #3
――独立されてからの今、目指していることとやりたいことはなんですか?
「東南アジアで野球振興をすることです。僕は順風満帆に野球をしてきたわけではなく、病気や困難をたくさん経験しているので、恵まれない環境で野球を続けることの難しさやできた時の喜びを伝えていくことは、僕しかできないことじゃないかなって」
――すでにフィリピンでは子どもたちと野球教室を開催した
「起業した時に、巨人球団へご挨拶に行き、東南アジアでの野球普及活動のプランを話しました。その結果、2020年にジャイアンツが来比し、僕がフィリピンで立ち上げた団体と一緒に野球教室を開催してくれたんです。こういった普及活動を通じて自分にしかできない貢献を続けたいと思っています」
――現在はフィリピンだけですか?
「フィリピンだけでなく、インドネシアなど東南アジア全土に活動の幅を広げたいと考えています。2024年の7月(仮)にはジャカルタで州対抗の高校野球、インドネシア版の“甲子園大会”を実施するために企画しています」
――フィリピンでの野球教室やアジア甲子園大会を通じて、目指すものは何ですか?
「この活動は結果的に日本の野球界にとても好影響を与えるものになると思っています。東南アジアの子どもたちが日本の野球から礼儀や礼節を学びながら、ゆくゆくはスターを生み出したいです」
――そのほかにもプロ野球選手のセカンドキャリアを支援する活動もされている。ご自身のセカンドキャリアのビジネスも軌道に乗ったように見えます。
「プロ野球選手になれる人はほんの一握り。そこに到達できたのだから、社会に出ても何とかなるんじゃないかという根拠のない自信がありました。元々勉強は好きでしたし、色んな仕事に興味があったので、野球以外のスキルがどれぐらい通用するんだろうと試したい気持ちもありました」
――根拠のない自信と言いましたが、支えているのはどのような部分ですか?
「自分の可能性を信じるということです。病気になっても甲子園に出られたのも、プロ野球選手になれたのも、自分のことを信じてたから。途中で自分のことを諦めなかった。それは仕事をやっていても一緒なんじゃないかなと思っています」
――最近ではベトナムで野球教室をしたり、フィリピンのスラム街にも足を運ばれた。
「メジャーリーグでもスラム街にスタジアムを作って、周辺を浄化するという活動をしています。同じようなことを東南アジアでもやりたい。それこそ野球は日常生活に必要なことではないけども、国民の生活自体が向上するという証明ができれば、野球をやってくれる人が増え、マーケット、国全体も盛り上がり、そこに経済的な支援もついてくる。そういったことをやっていきたい」
――思いに賛同してくれる選手がこれからも出てきそうですね。
「わずか数年でできるとは思っていません。文化を根付かせていくという行為は、20年、30年とかかるかもしれない。もしかしたら、僕が生きている間には完成しないかもしれない。それでも、僕はやります。スラム街の子供たちに夢を持って生きてもらいたい。そのために、誰よりも僕が夢に向かって生きている姿勢を持ち続けたいんです」
終わり
プロフィール
柴田章吾(しばた・しょうご)
1989年4月13日、三重県生まれ。中学3年の4月から国指定の難病、慢性疾患「ベーチェット病」の闘いながらも愛工大名電で甲子園出場。マウンドにも立った。明大から2011年育成ドラフト3位で巨人に入団。支配下登録を目指すも2014年2月の宮崎キャンプ中に虫垂炎を発症。1軍登板はなく、同年で現役引退。ジャイアンツアカデミーのコーチとして野球振興に携わり、経営者としても活躍中。