令和の断面

【令和の断面】vol.102「ラファエルナダル 王者の帰還」

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    「ラファエルナダル 王者の帰還」

     優勝したラファエル・ナダル(スペイン)のスピーチが、その夜何があったのかをひと言で物語った。
     「みなさん、おはようございます(グッド・モーニング)」
     会場は笑いに包まれたが、選手同様に観客も疲れたことだろう。

     テニスの4大大会(グランドスラム)の全豪オープン(@メルボルン)。
     ダニール・メドベデフ(ロシア)対ラファエル・ナダルの男子シングルス決勝(30日)は、現地時間夜8時に始まったが、フルセットの末にゲームが終わったのは、夜中の1時を回っていた。なんと5時間24分の大熱戦。
     日付が変わって翌日になったことへのジョークが、ナダルの冒頭の挨拶である。

     結局、当方もこの試合を最初から最後までテレビで観戦してしまった。
     「しまった」というのは、何度も途中で寝ようかと思ったのだが、すさまじい展開が寝させてくれなかったのだ。

     第1セット、第2セットを簡単に取ったメドベデフが、年長のナダルをあっさりと片付けてしまうのかと思った。南半球のオーストラリアは、連日真夏の気候。この試合中にも、  
    全身汗だらけになった両者は、ロッカーに戻りウェアを3度交換している。この暑さは、25歳のメドベデフより35歳のナダルの方が堪えているだろうと思ったからだ。
     しかもナダルは、足の故障で去年の夏からすべての大会をキャンセルしていた。左足を手術し、今大会に臨んでいた。どのくらいのテニスができるのか、まったく未知数だった。スピーチでも、「私にとって、最後の全豪になるかもしれないと思って臨みました」と明かした。もしかすると引退すら覚悟していたのかもしれない。

     ところが、ここから盛り返したのはナダルだった。
     ファーストサービスが入らず、ストロークの打ち合いでも力負けしていたナダルが第3セットになるとガラッとそれまでのテニスを変える。
     ドロップショットを多用しメドベデフを前に出すと、返ってきたボールを絶妙のコントロールでパッシングする。ファーストサービスが決まり出すと、サーブ&ボレーでナダル自身も前に出ていく。
     ベースラインでの打ち合いを避けて、メドベデフを動かすことで徐々にペースを取り戻していったのだ。
     リズムを狂わされたメドベデフにミスが目立つようになり、気が付けばフルセットの末にナダルが歓喜の優勝を手にしていた。

     どちらが勝ってもまったくおかしくない史上稀にみる大接戦だったが、勝敗を分けたのは、お互いに疲労困憊の中にあっても要所でナダルのプレーが乱れなかったことにあったような気がした。

     テニスファンなら誰でも知っていることだろうが、ナダルはコート内でのルーティンを決して変えない(乱れない)。
     水分補給のボトルは、寸分狂わず同じ位置に置き、コートチェンジでコート内を歩く時にも毎回同じところを同じように歩く。サーブ前の予備動作もボールを突く回数もすべて同じだ。コート脇に置くタオルも、無造作に投げ置くのではなく、洗濯物を干すように毎回丁寧に開いて掛けておく。何をやっても試合中のすべての行動を全部マネジメントしている。凡ミスをしても、長いラリーで息が上がっていても、感情も行動もつねに彼のコントロール下に置かれているのだ。
     それは、この試合だけのことではないが、やるべきことに手を抜かず、一つ一つ丁寧に積み上げる姿勢が、この試合の勝因そのものだと思った。

     どんなに長い試合でも、結局、勝利とはそうやって一つ一つのプレーの積み重ねの上に成り立っているのだ。
     この試合を観て、ナダルがそのことをよく知っていることが分かった。

     ナダルにとって、この勝利が歴代最多グランドスラム21回目の優勝であり、自身2度目の生涯グランドスラム制覇を達成した。
     そして、「最後の全豪になるかもしれないと思って臨んだ」と語ったあとでこう続けた。

     「でも、今後も頑張ります。今は気持ちを、うまく説明できません。プレーは続けます。また来年お会いしたいですね。ありがとうございます」

     ナダルの引退は杞憂に終わり、王者はさらにバージョンアップしてグランドスラムに帰ってきた。
     メドベデフには、不運な夜だった。

    青島 健太 Aoshima Kenta
    昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
    慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
    同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
    5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
    オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
    現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。
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