令和の断面

【令和の断面】vol.77「卓球混合ダブルス 奇跡の大逆転」

SHARE 
  • 連載一覧へ


    「卓球混合ダブルス 奇跡の大逆転」
     今回の五輪から正式種目に加わった卓球の混合ダブルス。
     初代王者(金メダル)に輝いたのは、日本の水谷隼、伊藤美誠組だった。
     逆転に次ぐ、逆転。
     決勝戦も中国の最強ペアに2ゲームを先取されてから、3ゲームを奪ってフルセットに持ち込む。これまで4戦4敗の相手に、最後は怒涛の攻撃を繰り出し11対6で勝ち切った。

     二人は、揃って静岡県磐田市の出身。水谷の父親が代表を務める卓球のスポーツ少年団に伊藤が4歳のときに入団。その頃からからの幼なじみだと言うから、二人の息が合うのもうなずける。それぞれが持ち味を発揮して見事な戦いを続けた。

     1回戦から4試合を勝ち抜いての金メダル獲得だったが、絶体絶命のピンチを迎えたのは、準々決勝(2試合目)のドイツ戦(フランツィスカ、ソルヤ組)だった。
     観ていて、正直、「終わった!」と思った。

     この試合も、フルセットの大熱戦。
     しかし、勝負の第7ゲームは、開始からリズムが作れず、9対2と一方的な展開になってしまった。息の合った二人でも、さすがにもう無理。早々と姿を消 すことになるだろうと思った。
     ところが、ここからとんでもないドラマが待っていた。

     どちらかと言えば、伊藤の攻撃を支えるようにプレーしていた水谷が、攻撃のスイッチを入れる。チャンスと見るや、果敢に攻め込みどんどんポイントを奪う。水谷の4連続ポイントで10対10に追いついた水谷・伊藤組は、7度のマッチポイントをしのいで、16対14でこの試合を勝ったのだ。
     この逆転劇には、さすがに鳥肌が立った。
     すごい技術と最後まで諦めない精神力。
     この試合の二人は、まさに金メダルに値するペアだった。
     というか、この試合を勝った時に、私は優勝を確信した。
     (この試合を観ていた人は、みんなそう思ったことだろう)
     これ以上、彼らに勢いをつける試合はないし、二人とももう負ける気がしなかったのではないかと思う。それくらい神がかったすごい逆転劇だった。

     試合後のインタビューで伊藤が言った。
     「水谷さんでなければ、絶対に勝てなかった」

     それは、どんな状況に追い込まれても自分のプレーを淡々と繰り出せる水谷のすごさに、伊藤が最大限の敬意を払って述べたコメントだったと思う。確かに、水谷の大活躍がなければ、あの逆転劇は生まれてなかっただろう。
     水谷も伊藤の気持ちを受け取るように穏やかにその言葉を聞いていた。
     世界トップレベルの女子選手にそう言われる水谷は、本当に頼りになる選手だ。

     そのことに何の異論もないのだが、私は伊藤の言葉を聞いて、そこにチームスポーツの醍醐味を感じた。
     伊藤の発言は、裏を返せば「私一人ではとても勝てなかった」となる。
     つまり、私たちは誰かと一緒に組むことで、仲間と一緒に戦うことで、相手の力を引き出すとともに、自分の力も引き出してもらうことができるのだ。

     それはきっとこんな精神作用だろう。
     例えば、登山。
     先頭を行く人は、道を間違えないように的確な判断を下し、しかも安全な路面を選んで歩く。あとに続く人は、その足跡をトレースすれば、余計な心配をせず楽に進むことができる。それは心身のエネルギーのセーブにもつながる。これを交互に繰り返せば、お互いに助け合うことができる。
     また、相手や仲間がいることで、さまざまな不安やプレッシャーも一人で受け止めるよりもはるかに軽減される。
     これが相手と直接戦う場面になれば、こうした心理的な作用は、より大きく働くことになるだろう。「もうダメだ!」と思っても、仲間のプレーが元気をくれる。自分のミスを誰かがカバーしてくれる。その信頼感と安心感が、奇跡を起こす原動力になるのだろう。

     もちろん五輪レベルになれば、高い技術があってこその関係性だ。
     しかし、技術が同じレベルになれば、その差は信頼関係やチームワークで生まれる。
     水谷・伊藤組は、チームスポーツの面白さを存分に見せてくれた。

     これから始まる野球や、陸上のリレー、さまざまなペア種目、団体戦に、水谷・伊藤組のドラマを何回も観たいものだ。

    青島 健太 Aoshima Kenta

    昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
    慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
    同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
    5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
    オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
    現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。

    バックナンバーはこちら >>

    関連記事