「東日本大震災 仙台のタクシーで感じたこと」
2011年、3月11日。
私は、講演を依頼された会社(川崎市)の控室で出番を待っていた。
講演会場となった会議室には、50名ほどの社員がすでに集まっていた。大半は川崎以外の支社から来た人たちだった。
控室で役員クラスの方々と講演の担当者と開幕の近づいたプロ野球の話などをしていた。控室は、そのビルの9階にあったように記憶している。
そして、そのとてつもない揺れは突然やってきた。
応接セットの椅子に座っていたが、普通に椅子に座っていることもできなかった。
ビル全体がしなるように揺れているのを感じた。気が付けば床に這いつくばって、その部屋にいた人たちと顔を見合わせながら大変なことが起こっていることを察知した。揺れている時間は、3分にも4分にも感じられた。長い恐怖の体験だった。
東日本大震災。
恐ろしい地震の被害がさらに大きくなるのは、この後、太平洋側沿岸を襲う大津波によるものだったが、その事実を知るのは、東京の自宅まで3時間歩いて帰ったその日の夜のことだった。
多くの方が亡くなり、甚大な被害を被った地域の人々のことを思えば、私は本当に恵まれていた。木造の自宅は倒壊しているかもしれないと思って帰ってきたが、いくつかの調度品が棚から落ちている程度で、その夜も地震の被害状況を伝えるテレビを見ながら過ごすことができた。
しかし、不思議なことにそれから1か月くらいをどう過ごしていたかの記憶がまったくない。東京を拠点にそれまでの仕事を続けながらも、毎日届く被災地の被害状況に身体が固まってしまったというか、呆然となって動けないような心の状態になっていた。
その頃を思い出して鮮明な記憶がよみがえるのは、4月末に仙台を訪ねたときのことだ。新幹線で仙台駅に着くと、私は駅前のタクシー乗り場からタクシーに乗って行き先を運転手さんに告げた。
「宮城球場(楽天の本拠地)までお願いします」
すると、その運転手さんが言った。
「うれしいな。やっとお客さんを野球場に連れていけるようになったんだね」
その日は、オープン戦からシーズン開幕を通じて仙台に帰ってくることができなかった東北楽天ゴールデンイーグルスが、地元に戻って初めて公式戦を戦う日だった。取材のために午前中には仙台に着いたので、おそらく一般のファンの人よりは早くタクシーに乗ることになったのだろう。だから運転手さんも「球場行き」を喜んでくれた。
その運転手さんの喜びが救いになったというか、被災地に少しずつ日常が戻ってきていることを感じて、私もホッとするような気持ちになったのだ。
あれから10年。
被災地の復興がまだまだ続いている中、今度は日本中がコロナ禍に襲われている。
去年は春と夏の甲子園が中止になったりしたが、プロ野球やJリーグは何とかシーズンを戦い抜いた。はじめは無観客だったスタンドも、少しずつお客さんを入れての開催になった。
まだ、あらゆるスポーツが満員の観客の中でプレーすることはできない。
しかし、厳しい状況の中でもスポーツは、確実に前に進んでいる。
そして、多くの人に喜びと興奮を届けている。
もう少しの我慢だ。
あの大災害を乗り越えてスポーツが再開したように、私たちはアフターコロナの世界に向かっていくだろう。
「今日は、球場に行く人で忙しいわ」とタクシーの運転手さんが嬉しそうにこぼす日を信じて…。
昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。