「ドラフト会議で覚えた違和感」
将来を嘱望された若き才能が、プロ野球の門をくぐる。
各球団に指名された選手の顔には、喜びと安堵の念があった。
10月26日に行われた「プロ野球ドラフト会議 supported by リポビタンD」のテレビ中継には選手たちの喜びが溢れていた。そして首尾よく指名を終えた12球団の関係者も、まずはホッとした様子だった。
そんな晴れの舞台、新しい躍動が感じられるドラフト会議だったが、終わってみれば喉の奥に小骨が刺さったような、小さな違和感がひとつ残った。
9月に本コラム34号で「田沢ルール撤廃は英断だ」という原稿を書いた。
今シーズン、アメリカのマイナーリーグが開催されないことを受け、BC埼玉と契約して日本でプレーしていた田沢純一投手が、今ドラフトで指名されればNPBでプレーできるというルール改正がなされていたのだ。
「田沢ルール」をもう一度振り返っておこう。
いわゆる「田沢ルール」が設けられたのは、2008年のことだ。社会人野球でプレーしていた田沢は、ドラフトでの上位指名が確実視されていたが、これを拒否して、直接、メジャーリーグに渡る。ボストン・レッドソックス(9年~16年、17年からはマーリンズとエンゼルスでプレー)での活躍は周知の通りだ。10年間(主にリリーフ)で388試合に登板、21勝26敗、89ホールド、4セーブ。
そんな田沢に課せられたルールは「アマチュア選手が国内球団を経由せずに海外でプレーした場合、帰国しても高卒選手は3年、大学・社会人出身選手は2年、帰国してもドラフト指名が凍結される」という12球団の申し合わせだった。
今シーズン、メジャー契約を結べなかった田沢は、マイナーリーグでプレーすることになったが、新型コロナウイルスの影響でマイナーリーグが行われていない。
そこで出場の機会を求めて日本に帰ってきていたのだが、前述のルールのため2年間、しかもドラフトで指名されなければNPBではプレーできず、BC・埼玉に籍を置いていたのだ。
ところがプロ野球12球団は、9月7日に開催された実行委員会でこのルールの撤廃を決定し、今秋のドラフト会議の指名対象に2年待たずに田沢投手も含まれることが決まったのだ。
しかし…。
今回のドラフト会議で田沢投手は、どこの球団からも指名されなかった。
何だか分からないが、スッキリしない。
「田沢ルール」が撤廃されて、彼に門戸が開かれたことは素直に喜んだが、現実は甘くなかった。
指名回避の理由は、いくつか浮かぶ。
34歳という年齢。
かつてのような輝きを取り戻せるのか。
実力派の選手なら、アメリカを探せばたくさんいる。
台湾や韓国経由の外国人もいる。
ドラフト会議では、将来性のある若い選手を獲得したい。
メジャーでの実績があるだけに、年俸も相応の額になる。しかも代理人が交渉に当たる。球団にとっては、二の足を踏む選手だ。
つまり田沢のような存在(ある程度実績を残した選手)には、そもそもドラフト会議で指名されるということ自体が難しいということなのだろう。
だとすれば、「田沢ルール」は撤廃されたものの彼のような選手は、実質的に日本のプロ野球ではプレーできないということだ。
刺さって抜けない小骨は、その部分なんだと思う。
新人選手にドラフト会議での指名を義務付けるのは、一旦アメリカに渡り、アメリカ経由で好きな球団と契約するという抜け道を防ぐ意味なのだろうが、田沢投手にこれを当てはめるのは無理がある。
今後は、こうした帰国選手だけの交渉の場を設けるべきだろう。
そうでなければ、ルールという「縛り」のために、プレーできない帰国選手がこれからも生まれることになる。
現状のシステムには、まだまだ課題があることを考えさせられたドラフト会議だった。
昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。