「関根潤三さんは粋な野球人」
悲しいことが続く。
東京ヤクルト・スワローズで指揮を執られた野村克也さんが亡くなったばかりだが、今度は関根潤三さんが他界された。
4月9日、午前9時45分。老衰、93歳だった。
私はヤクルトで5年間プレーしたが、最初の2年間が土橋正幸監督、その後3年間、関根潤三監督にお世話になった。と言っても、私は、関根ヤクルトでは戦力としてほとんど貢献できなかったが、春のキャンプや控えでベンチに座っていても、いろいろなことを教えてもらった。
今だから言えることだが、関根さんの1年目には、監督の出すサインを私のジャスチャーで3塁コーチに伝達していた。例えば、ベンチ内で関根さんから私に「バント」というサインが出ると、これを何気ない仕草(帽子を触ったり、腕を組んだり)で3塁コーチに送っていたのだ。
この時、チームにはボブ・ホーナーというバリバリの大リーガーがいて3塁を守っていた。この他に3塁手の控えには角富士夫さんもいた。青島は3塁手の3番手。
ほとんど出番がない。そこで関根さんは、暇を持て余している私に、サインの伝達役を命じたのだ。
ありがたいことだ。
そうした役目でもチームに貢献できる。
それは関根さんの控え選手への気遣い、配慮だと感じていた。
打てなくても、エラーしても、選手を怒ることはない。
それが野球だと、達観している。
その豊富な経験と人間の大きさが、若い選手を伸び伸びとプレーさせた。
関根さんがヤクルトの監督を務めたのは、1987、88、89年の3年間だが、この時期に池山隆寛(ヤクルト2軍監督)や広澤克実といった球界を代表するスラッガーが育ったのは、関根さんの大らかさがあればこそのことだった。そして彼らは、90年から指揮を執る野村監督の下で大活躍することになる。
いつも穏やかで、飄々としている関根さんだったが、当時のエース、荒木大輔(日本ハム2軍監督)から聞いた話は意外だった。
ピンチを迎えた荒木投手のところに関根さんがやってくる。
守っている野手もマウンドに集まる。
時々私もその輪の中にいたが、関根さんは檄(げき)を飛ばすこともなく、いつも通りの口調で淡々と荒木に語り掛ける。それは技術的なアドバイスであったり、気分転換を促す話であったり・・・。
とにかくどんな場面でも、大声を出したり怒ったりすることはなかった。
だから私は、「関根さんは、優しかったね」と荒木に言ったのだが、彼の印象は違った。
関根さんはマウンドに来ていつも穏やかに話しているのだが、実は、その時に荒木の足を強く踏んでいたというのだ。関根さん流の隠れた檄。
そこには、誰も気が付かなかった。
考えてみれば、私が伝達していたサインもそうだ。ほとんどのチームメイトが私の役割を知らなかった。
そう、それが関根さんのやり方なのだ。
相手をちゃんと大人扱いしておきながら、必要なメッセージはしっかり伝える。私にサインの役を振ったのも「あまり出番はないぞ、覚悟しておけ」というメッセージでもあったはずだ。
スマートで粋な野球人。
関根さんをそう評すれば、誰も異論はないだろう。
私にとっては、恩師であり、憧れの大先輩だった。
ヤクルトに伝統的に漂う家族的なチームカラーは、関根さんが遺していったものだと、私は思っている。
昭和33年4月7日生/新潟県新潟市出身
慶応大学野球部→東芝野球部→ヤクルトスワローズ入団(昭和60年)
同年5月11日の阪神戦にてプロ野球史上20人目となる公式戦初打席初ホームランを放つ。
5年間のプロ野球生活引退後、オーストラリアで日本語教師を経験。帰国後スポーツをする喜びやスポーツの素晴らしさを伝えるべくスポーツライタ―の道を歩む。
オリンピックではリレハンメル、アトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティー、アテナで、サッカーW杯ではアメリカ、フランス、日韓共催大会でキャスターを務める。
現在はあらゆるメディアを通して、スポーツの醍醐味を伝えている。