選手としてピークで迎えられると思っていたシドニー五輪に出場できないなど、若くして味わった挫折は、風呂に入ることすら拒絶した「水恐怖症」に陥ってしまうほどのショックだったが、社会人となって出会った周囲の人たちにも助けられ、その挫折を乗り越えてきた。今は経営者として、従業員に周囲の人とのコミュニケーションの大切さを説く。人との巡り合い、そのタイミングは自分で導いてくるものだという強い信念が見えた。それは、そのまま近内さんの経営哲学となり、せせらぎ整骨院を成功させた自負を感じ取ることができた。多くのアスリートにとって、セカンドキャリアに臨んでいくための大事な、礎となる思いがそこにあるように感じた。
競技生活の最後に経験した大きな挫折
中根:大学4年で、競技生活から退かれて、卒業後はどうされていたんですか。
近内:シドニー五輪の選考会で失敗して、それで現役を辞めました。神奈川県藤沢市のスポーツ振興財団に入って、主にプールの運営の仕事をさせていただいた。それが5年間。そのあと1年間、仙台に行ってコーチを指導する仕事をいただき、私が指導したコーチがジュニア・オリンピックで優秀コーチ賞をもらったことで、役割を終えたかなと、神奈川に戻り、そこで、前々からやりたいと思っていたトレーナーの勉強をするために柔道整復師の学校に行き、3年後国家試験にも受かり、こちらの院(せせらぎ鍼灸整骨院 武蔵中原本院)を立ち上げることにしました。
中根:社会人になっても水泳を続けようとは思われなかったんですか。
近内:五輪の選考会で負け方がひどかったこともあったと思うんですけれど、水を見るのも嫌になりまして。プールに入るのはもちろんのこと、箱に水を張っているということでいえば、風呂に入るのも嫌になった。半年くらいは、湯船につかることも嫌でシャワーだけ。選手を続ける気持ちは全くなかったですね。
アトランタ五輪 競泳400mメドレーリレー5位入賞 近内圭太郎氏
中根:そこまで水が嫌いになったのは、その選考会で負けたことが原因ですか。
近内:そうですね。それもあったと思います。当時の背泳ぎは私の持ちタイムがダントツで、五輪も当然私が出場するものというムードがあった。それが、200mの時なんか、150mまで世界記録を上回るようなペースで行きながら、最後の50mで体が全く動かなくなって、ばったり。最後の50mは40秒を超えた。小学生でも泳がないようなタイムで、レースは最下位。たしかに調整に失敗したというのは、あるんですけれど、それにしても遅い。いろいろな意味でショックでした。それが水泳を辞めた理由の一つであることは、間違いないです。
中根:結局、シドニー五輪に出ることができなかった。
近内:そうですね。僕のせいで、日本は背泳ぎの選手は五輪に行けず、前回のアトランタ五輪で5位入賞を果たした400mメドレーリレーにも出場できなかったんです。五輪史上初めてのことだったんじゃないでしょうか。
中根:22歳という年齢は、私たちのような野球選手から言うと辞めるには早すぎると思うんですけれど、水泳界ではどうなんですか。
近内:今は競技年齢が上がって、大学を卒業しても続ける人が結構いますけれど、我々のころは、大学を卒業とともに引退する選手が多かった。最近でいえば、(北島)康介とか(松田)丈志とか。私と同級生では(山本)貴司が結構長くやりましたね。少しずつですが、環境も整備されて、企業のバックアップも受け、現役を続ける条件が、整ってきたという感じでしょうか。私自身は2歳から水泳をやっていて、22歳でちょうど20年、もういいかな、と気持ちがありました。
中根:水嫌いになった近内さんが選んだ仕事が、プール管理だったというのも……。
近内:まあ、もともとプールで育ってきた人間ですし、水嫌いも半年くらいで消えました。卒業後、神奈川県藤沢市のスポーツ振興財団に入り、秋葉台公園にある公営のスポーツ施設内のプールの管理が主な仕事になりました。そこで、入ったばかりのころ、その最初に着いた上司にクギを刺されたんですよ。「お前は水泳以外に何ができるんだ」と。20年間水泳一筋ですから、「何もできません」と答えるしかない。「お前が水泳ができるのは、みんなが知っている。でも、ここでは水泳だけではやっていけないぞ」と言われたんです。水泳だけではなく、ここでの仕事もちゃんとできるようにやりなさいと。ガッツリ言われました。
中根:オリンピックに出た選手に。
近内:自分でもそんな気持ちはなくても、はたからは、そう見えるのかもしれない。あるいは知らず知らずのうちにそういう態度をとっていたのかもしれない。高くなっていた鼻を折られたような気がしました。もちろん、僕のことを心配してくれてのことだというのは感じたんで、プールのことだけではなく、業務のお手伝いもさせてもらって、覚えさせてもらって、それから水泳の仕事をやらせてもらうようになった。「交換日記」もやりました。たぶん私のことを心配してくれたんでしょう。その日、起きたこと、そしてどう感じたかを書く。そうすると上司が赤字で書いて返してくれるんです。3か月間やったのちに、「もう、いいぞ。一人でやれ」って言っていただいて、交換日記は終わりました(笑)。
中根:新人は近内さんだけだったんですか。
近内:それぞれの部署に何人かいましたけれど、交換日記をやったのは、僕だけでした。
中根:その上司の方も、逆に近内さんが五輪にも出た有名人だからこそ、何かと注目されるわけで、勘違いしないように、最初に意識してガツンと行ったんでしょうね。
近内:そうだと思います。いろいろアドバイスや、仕事を教えてもらいました。ライフガードに入らせてもらって、日赤の安全法とか、救助法も資格を取りに行きました。AEDが出始めたころでしたが、その講習にも行かせてもらったり、救助するためのゴムボートを運転するように船の免許を取らせてもらった。いろいろ勉強になった5年間でしたね。
(左)中根 (右)近内圭太郎氏
人材の「材」は財産の「財」、人と人とのつながりを大切にしたい
中根:それが、今の仕事に移るのはどういう経緯からでしょうか。
近内:元々、人の面倒を見るのが大好きで、選手のサポートをする仕事をしたい、という気持ちはあった。だから、漠然とですが、将来はトレーナーになりたいという気持ちは現役時代からありました。選手の気持ちにもなれるし、治療家の側にも立てる、両方をわかってやれるということで、より選手の力になれるんじゃないかという気持ちをずっと持っていました。藤沢にいた時に、仙台のあるクラブから、コーチを指導してやってほしいというオファーを受けまして、スポーツ振興財団を辞めて、コーチを育てる仕事を引き受けて1年間仙台に行ったんです。そして、その指導したコーチがジュニア・オリンピックのベストコーチ賞だったかな、コーチとしての賞をもらったので、一仕事を終えた感じで。神奈川に帰ってきて、このタイミングかなと思って、以前から思っていた柔道整復師の資格を取りに学校に通うことにしたんです。29歳の時です。3年間、午前中は接骨院でアルバイト。午後6時から9時までは、整復師の学校に通いました。卒業して、国家試験にも受かり、そこで会社を起ち上げることにしました。それがここ、せせらぎ鍼灸整骨院 武蔵中原本院です。半年後に柿生にもう1店舗開きました。
中根:社会人になってすぐ、いい上司に巡り合えて、競技を辞めた後も目標を持って、いろいろ資格を取って、そういうことにチャレンジすることを目覚めさせてくれた。引退後の長い人生を考えると、五輪に出ることも大事ですが、ある意味、それ以上といってもいい仕事と人に巡り合えたということじゃないですか。
近内:そうですね。自分にとってはセカンドキャリアのスタートだったわけで、そこでそういうチャンスをもらえたのは大きかったと思います。水泳界でも、実は辞めた後、何もその経験を生かせる仕事についていないという方がたくさんいます。一番いいのは、やってきたことのノウハウを生かす仕事に就けることでしょうが、みんながみんな、そういう仕事に就けるわけではない。ただ、もったいないなとは思います。何とか、それを生かせるチャンスをつかんでほしいという気持ちはありますね。
中根:せせらぎ鍼灸整骨院はどのような形で運営されているんでしょうか。
近内:それぞれの院に院長がいますので、そちらに任せていることが多いです。院長に責任を持たせて、やってもらっています。
中根:そもそも近内さんが起ち上げたわけで、近内さんの院ですよね。
近内:そうなんですけれど、私が出ると私の色が強くなって、院長の色が消されてしまうんですよ。任せた以上は、責任を持ってやってほしいし、自分の色に染めていっていいよ、というか、むしろそうしてほしい。その院長がいるから患者さんが来る、院長がいるから信頼できる、そういう院になってもらわないと、いけないと思っているんです。私一人がやるんだったら、一つの院でいいですよ。それで十分経営は成り立つと思います。ただ、私の目標はこのせせらぎ整骨院をもっともっと増やしていきたい。水泳をはじめとしてスポーツのトレーナーとして一人立ちをしてほしいという気持ちが強いんです。だから、近内という名前を最初は使ってもいいけれど、いずれはその院長の院にしなければならないと、いつも言っているんです。
中根:逆に言えば、プレッシャーはあるでしょうね。
近内:プレッシャーを感じてくれるくらいでいいんじゃないでしょうか。いい意味で緊張感は必要ですし。私が彼らにいつも言っているのは、気配り、目配り、心配りを大事にしろと。お客様の立場に立って物事を考えなさいということだけですね。技術、知識よりも、院長が、責任を持てるかどうかというのが大事で、そういう気持ちを大切にしたい。この秋にももう1店舗増やそうと思っているんですけれど、その店舗の院長を任せようと思っているのはまだ21歳の子です。若いからダメという偏見は必要ないんです。21歳でもしっかりと責任を持てる21歳だと思ったからこそ、彼に任せようと思ったんです。若くても責任者としての素質があれば院長になれるという意味でもあります。もう本人には伝えてあります。
中根:確かに、プレッシャーはあるけれど、やりがいもあるでしょうね。任せられると思ったら、部下を信頼してやれるのは、やはり近内さん自身が社会人になった時にいい指導を受けたということが大きいんだろうなというのは、改めて感じますね。
近内:そうですね。自分の経験したことも、大きな影響があると思います。でも、しっかりと勉強はしてほしい。それは施術の技術面での勉強だけではありません。接骨院だけではなく一般企業のセミナーとかにも行かせて、ビジネスマナーを学ばせたりしています。それについては、会社でお金を出して勉強をしてもらっています。
結局人材の教育をしていかないと、会社は残らない、そう思っているんです。「人材」の「材」は実は「財」に置き換えて考えています。人は財産なんです。社員にもいつもそう言っています。それを作り上げていかなければならない。技術を覚えることも大事ですけれど、私はむしろそういう人材教育の方に大きなお金をかけていきたいと思って、実行しています。そうでないと後世に残る企業、今のうちでいえば『院』にはならない。
今、うちのモットーは「三世代に利用してもらえる院を作ること」。おじいちゃんがいて、親がいて、子がいて、三世代の家族が安心して通える院でありたいと思っているんです。社員にもそう言ってあります。そうですね。私自身いろいろな方に助けられてきました。先ほどからお話しさせていただいた藤沢の時の上司もそうですけれど、ほかにも多くの方に助けられてきました。
例えば、中原本院の近くにあるスポーツアカデミーさん。そこで水泳指導をやっていたんですが、トラブルもなく成果を出してきたということでクラブにも信頼していただいて、整骨院を始めるにあたって、スポーツアカデミー内のスペースでベッド2つ置かせてもらって、私ともう一人の2人で始めました。ただ、スペースの問題があって、保険が使えなかったんですよ。するとスポーツアカデミーの方から、「それなら近内君、近くでやったらどうだ」とお話をいただいて、歩いて1分のこの場所に閉店する洋服店があるということで、そこを借りることになりました。駐車場もスポーツアカデミーを使っていいよと言っていただいて、本当に恵まれています。
中根:それはありがたいお話ですね。
近内:そういう経験をしているからこそ、やはり人とのつながりは大切にしなければいけないと強く思うんです。自分が助けていただいているので、それをいろいろな形でお返ししたい。だから、その一つとして、2012年から震災の復興支援のお手伝いをさせていただいています。先日も岩手県の水泳の大会があって、マッサージをやらせてもらいました。料金はいただきますが、それはそのまま岩手県の水泳連盟に寄付させてもらっています。交通費や宿泊費はいただいていません。そういう形で支援を続けています。不思議なもので、人を助けるお手伝いをしていると、逆に私を助けてくれるという人が増えてきてくださるんです。
中根:まさに、情けは人のためならず、ですよ。回りまわって、自分のためになるということですね。いいお話を聞かせてもらいました。ますますのご発展を期待しています。
プロフィール
近内 圭太郎(こんない けいたろう)
●生年月日
1978年8月5日
●出身地
神奈川県鎌倉市
歳の頃から水泳を始め、小学校6年生で日本選手権に出場するなど、幼少期より数々の大会で優秀な成績を収める。18歳ではアトランタオリンピックの日本代表選手となった。引退後は柔道整復師(国家医療資格)などの資格を取得し鍼灸治療院を開院。他にも水泳教室、体塾、イベントなど多岐にわたって活躍している。
戦績
・1996年 アトランタオリンピック 日本代表
・世界選手権 日本代表
・ユニバーシアード競技大会 日本代表
・アジア大会 日本代表 100m背泳ぎ優勝
・日本選手権 100m背泳ぎ優勝(2年連続)
・国民体育大会 優勝(5年連続)
・日本高校選手権 優勝(3年連続)