毎回のように金メダルを獲得してきたレスリングが、メダル存続の危機だった
中根:シドニー五輪で銀メダルと獲得されたときは、それまでとは人生が変わったような思いをされたと、うかがいました。
永田:シドニー五輪に行くときは、誰にも注目されていませんでしたからね(笑)。まあ、自分自身がビックリしていたくらいですから仕方ないところもありますけれど(笑)。日本に帰ってきたら、結構、騒がれていたんで、なんか、全然違う国に帰ってきたなと思いました。シドニー五輪は日本選手のメダル獲得が少なかったんですよ。たしか18個だと思います。そのあとのアテネは37個ですから。特にレスリングは、女子が種目に採用される前でしたし、有望選手も、あまりいなくて、結局メダルを取ったのが、僕だけだったんですよ。そういうこともあって“いい思い”をさせてもらったと思います。
シドニー五輪で銀メダリスト 永田克彦氏
中根:かつては日本のお家芸と言われるほど、毎回のように金メダルを獲得してきたレスリングが、メダル存続の危機だったと。
永田:そうですね。52年のヘルシンキ五輪から続いてきたメダル獲得が途切れるんじゃないかと、協会も心配していたところもある。その証拠になるかどうかはわかりませんが、JOCの報奨金とは別にレスリング協会独自で報奨金を設定していた。金1000万、銀700万、同300万だったと記憶していますが、ほかの競技団体と比べても、明らかに多かった。それは、それだけ危機感を持っていたからだと思います。結局僕だけが、その報奨金をいただいたわけですけれど、プロスポーツの世界とは違いますからね。それだけで、当時の僕の年収をはるかに上回る金額をいただきました。
中根:僕からすると、もっと出してもいいのに、と思いますけれどね。就職のあっせんとかもないですよね。
永田:ないですね。だから、レスリングだと、現役を退いた後は、学校の先生とか、所属チームのコーチになれればいい方、という見方もあります。僕のようなケースはまれですよね。万人が恵まれた環境にいるということはないですよね。
中根:永田さんの大学(日体大)の後輩なんかもだいぶ苦労されているんですか。
永田:していますね。今でこそ、その後の女子選手、吉田沙保里選手とか伊調馨選手とかの活躍で、レスリングに興味を持ってくれる人が増えましたが、僕がやっていた時は、オリンピックに出る、出ない、で大きく違う。出られないと、本当にただの人という感覚。やってきた証が残らないと言ってもいいくらいの厳しさがありました。いくら全日本で優勝したと言っても、世間に人には届かない。だから、五輪に行けないと、人生終わりだなというくらいの気持ちでやっていました。本当に行けたんでよかったんですけれど、実際国内で活躍しても、五輪に行けていなかったら、きっと、その後は大変だったと思う。もう一般人と同じですよ。就職にしたって、特にメリットもなく、新たに探さないといけない。大変だっと思うし、実際に、大変な思いをしている選手もたくさんいると思います。
中根:ほとんどがそうですよね。野球界もそうです。プロという華やかな世界ですけれど、みんながみんな一軍でレギュラーになれるわけでもない。二軍のまま、ユニフォームを脱いでいく人もいっぱいいます。そういう人たちをサポートしていきたいという思いがあって、この「アスリート街.com」を立ち上げたんですけどね。
永田:よく話をしていると、スポーツ選手、大学の体育会系の人は、元気がよくて、返事がよくて、礼儀が正しくて、話ができるから、いいと言ってくださる方もたくさんいらっしゃるんです。そういうところを生かせる仕事がたくさんあればいいんですけれどね。
中根:永田さんは、いつごろからジムをオープンしたい、自分でやりたいと思っていたんですか。
永田:シドニー五輪のときは、大学を卒業後、警視庁で、公務員としてやっていたんですけれど、メダルを取ったから言うんじゃないですけれど、その中で活動を続けておくことに多少限界のようなものを感じていました。幅広く活動したいという気持ちもありましたし。それで、実業団という形でやらせてくれるというんで、新日本プロレスに。「闘魂クラブ」の所属という形で、アマチュアレスリングを続けていました。その後アテネに出た後、当時は格闘バブルと言いますか、「K-1」をはじめとして、いろいろな総合格闘技が注目を集めていた時代で、声をかけていただいたし、まあ新日本プロレス内のクラブにいたこともあり、兄(永田裕志=新日本プロレス所属のプロレスラー)の影響もあって、そちらの方にもチャレンジしました。ただ、そのころから、いずれは、自分のセカンドキャリアを考えて、生きていく道を築いていかなければならないなとは考えていたんです。いつまでも選手としてやっていくことはできないわけで。昔から、自分のジムを、道場を開くというのが夢でもありましたから。
永田氏の経営する格闘技ジム 『WRETSLE-WIN』
同じ後悔なら、やらずに後悔するよりも、やって後悔したほうがいい
中根:レスリングは子供のころからやられていたんですか。
永田:小学校の5年の時、ロス五輪を見て、レスリングをやりたいなと思っていたんです。ちょうど5歳上の兄(裕志さん)も、高校に入ってレスリングを始めた時でしたから。ただ、中学にはレスリング部はない。だから、当時の田舎の中学生なんか、そういうのが結構多かったと思うんですけれど、野球部に入りました。高校からは、地元の公立の進学校である成東高校を目指して、受験勉強もしっかりやって、入学したらすぐにレスリング部の門を叩いたということです。
中根:野球部も、結構卒業生で有名な選手出ていますよね。
永田:鈴木孝政さん(元中日)とか、中村勝広さん(現阪神GM)とかですね。僕が1年生の時も甲子園に出ましたしね。
中根:プロレスラーのお兄さんがやられる「敬礼ポーズ」は、永田さんが警視庁にいたのがきっかけになっていると言われているようですけれど。
永田:あれは多少、都市伝説的なところがあって、兄貴は最初、敬礼のつもりではなく、遠くを見渡す時に、日を遮るように、庇(ひさし)がわりに手をかざすじゃないですか。そのつもりでやっていたんです。それが、見た人がいつの間にか、敬礼ポーズというようになって。だんだん、話に尾ひれがついて、僕が警視庁にいるから、敬礼ポーズを始めたとか。実際はそんなことはないと思います。
中根:メダルと獲った後も、そのまま警視庁に残るということは考えなかったんですか。変な言い方かもしれませんが、公務員として、生活は安定するわけじゃないですか。
永田:五輪に出られなかったり、メダルを獲っていなかったら、残っていたかもしれませんね。失礼な話かもしれませんが、メダルを取ったことで、ある意味、人生の選択肢がひろがったな、と。それで、決められたところにいるのもいいんですけれど、せっかく自分のつかんだチャンスですからね。最大限生かして、やりたいことをやった方がいいかな、と思うようになりました。同じ後悔するんだったら、やらずに後悔するよりも、やって後悔したほうがいいかなと。そういう感じで決断しました。
中根:今、生徒さんたちはどれくらいいらっしゃるんですか。会費はどれくらいですか。
永田:子供たち、幼児が6000円、小学生が8000円。大人は1万円をいただいています。人数は大人の方が100人ちょっと、子供が60人くらいというところですね。大人の方は目的がいろいろ異なりますし、来られる時間は自由です。ふらっと来て、体を動かして、汗をかいて、帰って行かれる、そういう方が多いです。
中根:今、4年が過ぎて、5年目。順調に進んでいるということですね。
永田:まあそうですね。一応、ちょっとずつでも成長は続けてこられていると思うんで。このままいければ、もっと大きな店舗にしたいですね。ここを本拠地として残して、2店目、3店目という形で、広げていければなと思います。大きなスクールにしたいという考えもあるんです。
中根:最後に、現役のアスリートに向けて、メッセージ、アドバイスをいただけますか。
永田:まず、セカンドキャリアをどうするか、現役のうちから、考えておくのは重要なことだと思います。また、競技生活をやっていく上で、輝かしい実績を手にできるのは一握りかもしれないけれど、そこにチャレンジする価値は、間違いなくあります。自分が輝かしい実績を手にすることができたら、将来、それをもとにして、いろいろなことに広がっていく可能性は増えると思うし、また、仮に達成できなかったとしても、そこで苦しんで、チャレンジしたことは、セカンドキャリアの中で生きてくると思うんです。そういった、障害とか苦しみがあればあるほど、それは自分を成長させてくれるものだとも思うんです。神様がその人を成長させるために、あえて与えてくれた試練だと思うことです。そう考えて取り組んでいければ、今の自分だけでなく、その後の自分の道も開けるんじゃないかなと思いますし、将来的には、セカンドキャリアに生かされる。そう信じて、まずは、今の選手活動を頑張ってほしいと思う。
中根:貴重なお話を聞かせていただきました。ありがとうございました。
(左)永田克彦氏 (右)中根
プロフィール
永田 克彦(ながた かつひこ)
2000年、シドニーオリンピックレスリング グレコローマンスタイル69kg級銀メダリスト。
全日本レスリング選手権大会 グレコローマンスタイル69kg級 5連覇。
プロレスラーの永田裕志は実兄。