愛称『デカ』――時代は「阪急ブレーブス」が「オリックス・ブルーウエーブ」に変わるころ。日本人選手としては当時、リーグ1の身長を誇った。その“巨体”から、しばしばチームの勝利に貢献する一打を放ち、『デカ』『デカちゃん』の愛称とともに、チーム内はもとより、多くのファンに愛された。ところが、度重なるケガ、故障に悩まされ、また、イチロー、田口らの台頭もあって、だんだん出番を失っていく。晩年、ヤクルトに移籍し、捲土重来を図ったが、代打や控え野手としての起用が多く、持ち前のパワーを発揮する場面は少なかったが、今もその姿が印象深い。「記憶に残る」名プレーヤーの一人だったと言って、異論はないだろう。日本球界を引退後、台湾でもプレーした高橋さんだが、今は、夫人の故郷である名古屋で、エレベーターの管理、整備の仕事をされている。
現役時代、レギュラーをつかみかけた時期もありました。そのチャンスに、残念ながらケガをされ、本当の意味での才能の開花とはいかなかった印象があります。
高橋:確かに怪我も多かったけれど、単純に競争に負けたということですよ。力不足ということ。チームに競争相手も多かったし。未熟だったということです。それはプレーや技術だけでなく、人間としても。
人間として未熟というのは、僕は、人に頭を下げることができなかった。ちょっと、気に入らないことがあったり、嫌いな人がいると、それらに対する不満が、そのまま口や態度に出た。今思うと、使いにくい選手だったと思います。監督から、使ってやろうと思わせることができなかったのは、誰の責任でもなく、自分の責任なんですよ。たしかに、怪我もしたけど、治った時に、「治ったんなら使おう」と思ってもらえるような選手でなかったということです。
特にオリックス時代、仰木彬監督には、使ってもらえるような状況にはなりませんでした。イチロー、田口、他にもライバルは多かったけれど、やはり、信頼してもらえなかったということでしょう。実は仰木監督になって、3年連続して給料が下がりました。
外面をうまく取り繕うということができない人間なので、愚痴ったりしたこともあったと思います。そういう態度も気に入らなかったんでしょう。仰木監督が3年目の年は、5月のゴールデンウイークを前に二軍落ちしてから、ずっと一軍に上げてもらえなかった。やっと声がかかったのが10月に入ってから。弓岡さんから伝えられたんだけれど、残りは確か8試合。「ふざけるな」と、キレました。「上げていただけなくて結構です。そのまま二軍に置いといてください。仰木監督にも、そう伝えてください」と返答しました。それでそのまま、シーズン終了まで二軍暮らし。その年のオフにヤクルトにトレードになりました。オリックス時代にも目をかけてくれた中西太さんが、声をかけてくれたときいています。
最初プロに入った時も、水谷実雄コーチに大変お世話になりました。僕が曲がりなりにもプロ生活を15年間も続けられたのも、水谷さん、中西さんのおかげだと思っています。ただ、僕がお世話になったコーチは、良くも悪くもひとクセある方々で、その実績、指導についての評価はすごく高いのですが、一方で万人に好かれるというタイプでない。みなさん、長く居られないんですよ。
阪急時代は、水谷さんの抜けられた後、あるコーチから「これまで通り、自分の好きなようにできると思うなよ」と、今でいえば、パワハラ、モラハラみたいなことを言われたことがあります。今だから言いますが、そのコーチの持ち物を見えないところで蹴飛ばしたこともあります。
オリックス時代の最後が、チームにはイチローや田口、藤井といった顔ぶれに加え、他にも他球団なら十分レギュラークラスの選手がいっぱいいましたし、ヤクルトにいっても、稲葉、真中ら、やはり若くて勢いのある選手がたくさんいました。そのため、僕は結局、代打や、左投手が予想される時の限定で先発に入れてもらうことがあるという立ち位置でした。
それはもう、それがその時の実力ということだったと思うので、悔いはありませんが、自分では、代打よりも4打席使ってもらって結果を出すタイプの選手だと思っていたので、自分に対して悔しさとか、だらしなさは感じていました。
ヤクルトを戦力外になったのち。台湾のチームから誘われていきました。当時は、台湾プロ野球が分裂して2つのリーグができていたのですが、その新しい連盟の方。
チーム内に日本人が、監督の石井丈裕さん、ヤクルトでも一緒だった加藤博人投手ら4人いました。
ところがこれがひどいチームなんです。練習もろくにやらない。レベルも低い。4チームあるのですが、元となるスポンサー、つまり“真の”のオーナーはみんな一緒。4チームで2試合ずつやると思うじゃないですか。審判が足らないからと、1試合やって、あとの2チームは休みということもしょっちゅうでした。
西武にいた郭泰源がリーグの運営代表という立場でいたんですけれど、その郭泰源から「どうせ、このリーグは長く持たないから、デカ、そんなに一生懸命やらなくていいから。適当にやっていけばいいよ」と言われたこともあります。
八百長の噂もありましたし。なんだか、日本人選手だけがまじめにやっている感じで、リーグもそうですが、自分も長続きしないだろうと思いながらプレーしていた感じです。結局、僕は開幕から3カ月でリーグを離れて、日本に帰国しました。残った加藤博人たちも、その後、10試合程度、試合を残して帰国しました。というか、リーグそのものが予想通りにめちゃくちゃで、日程通りに試合を消化されず、打ち切りになったと聞きました。
日本に戻ってこられてから、高橋さんにとってのセカンドキャリアがスタートするわけですが、当初考えていた通りに、仕事は見つかりましたか。
高橋:帰国後は、嫁さんの実家がある名古屋住まい。数カ月は、貯金を食いつぶしているという感じで、ゴロゴロしていました。嫁さんからは、「家族のこともあるんだから、ゴロゴロしているくらいなら、仕事を探しに行ってくれ。コンビニの深夜の店員のアルバイトでもやったらいいやん」と言われたりもしました。
言われてみれば確かにその通りで、いつまでも遊んでばかりではいられません。
子どももいましたし、生活できるだけのお金を稼いでこなくてはいけないわけです。
友人や知り合いを訪ねたり、電話をしたり。すると、元中日の投手だった宮下さんが「一緒にやろうや」と、声をかけてくれました。整体、マッサージの仕事です。
マッサージを習ったわけでもないし、柔道整復師の勉強をしたわけでもありませんが、見よう見まねで体を触っていました。もともと体のパワー、握力などは人一倍強いわけで、それなりに喜ばれていたかと思います。
とは言っても、そこも実は長続きしませんでした。なぜかというと、そもそも、その店舗が繁華街のど真ん中にあり、酒を飲んだりして、その足で店に流れてくるような人が多く、マッサージを受けるというよりも、ちょっと休める場所を求めて店に来られるんですね。だから、施術中、すぐに眠ってしまうんです。寝始めると、施術しても効果がないので、そのまま毛布やタオルをかけて寝かせてあげる。
それでお金をもらっていた。また、そういうお客さんが多くて、オーナーも、それをいいことに、何も治療せずにお金をもうけてやろうというのがありありで、そんなことが嫌になってやめました。宮下さんは、僕より先にやめていました。
家には、2人目の子どもができていました。やめたからといって、遊んでいるわけにもいきません。以前から知り合いの社長さんに、うちに来るかとさそっていただきました。
名古屋市内で、トヨタの部品を扱っている製造業の会社でした。
最初は順調でしたが、その時、襲ったのが、あのリーマンショック。不景気の波に襲われ、給料は一時の半分ほどに。残業もないどころか、会社に行っても仕事がないということで、自宅待機を命じられる日々が多くなってきました。
そこでの給与体系は「日給月給制」だったので、つまり、1日何円と決まっていて、それをまとめて月給として支払われるというシステム。出社しないことには給料は増えません。ついに給与は入社時の半分もないほどに落ち込みました。
面白いことに気づいたのですが、愛知県はご存知の通り、自動車のトヨタが支えていると言っていいほど、色々な場所で、トヨタの力というか、偉大さを感じます。自動車のトヨタだけでなく、トヨタの子会社、関連会社がたくさんあるのですが、それらの工場に入るためには、厳しいチェックがあります。例えば自動車を設計している工場に入るときは、携帯など全部預けなければなりません。映像や写真などが流失するのを阻止するためと聞いています。
また、同じトヨタ系列ではあっても、なぜか会社によって、入場するときに提出する書類の書式が異なっているんです。これは、理由はよくわかりませんが、慣れるまでちょっと面倒かも。今は、必要な資格も取り、これが最後の仕事と思って頑張っています。
現役時代も、辞めてからも、いろいろありましたが、やはり野球をやっていてよかったなと思います。改めて振り返ってみると、野球を辞めてからも、救いの手を差し伸べてくれた知り合い、友人、先輩…みんな野球をやっていたからこそ出会えた人ばかりなんですよ。選手時代の「デカ」高橋智を知っているから、一緒に仕事をやろうと言ってもらえる。みんなそうだったと思います。
自分は不器用な選手だったと思います。それは技術的にも、精神的にも。人との付き合い方も、ときに無駄にぶつかったり、突っかかっていったり、若い頃は特に、いろんな人に迷惑をかけたかもしれない。
でも、そんな自分は自分なりにまっすぐ野球に向き合ってきたし、だからこそ、野球というか、野球で知り合った人たちが助けてくれているんだと思います。
偉そうなことを言っていますが、それに気づいたのは、こうして野球をやめて、社会に出てからのことではあるんですけれど。
だから今の現役選手たちも、その時その時を一生懸命にやってほしい。一生懸命頑張っている姿を、周りの人は見てくれています。そういう人たちが、辞めてからも助けてくれるんです。いい加減に現役生活を送っていると、やはり、あいつはそういうヤツなんだと、見られて、手を差し伸べてくれることもないのではないかと思います。
ただ、プロの選手といえども、現役を引退した後も野球界で仕事を続けられるのはほんの一握り。独身なら、トライアウトを受けるなり、独立リーグで続けるのもいいかもしれませんが、特に家族がいる場合は、野球を諦めて、すぐ次の仕事。第二の人生を探して一生懸命、そっちの道で頑張る決断をしたほうがいいと思いますね。
夢を壊すようで申し訳ないですが、トライアウトをうけて、球団から声をかけてもらって、一軍でバリバリ活躍している選手って、どれだけいますか? 夢を追いかけるのもいいけれど、そこは現実を見ないといけないと思うんです。
決断、これは自分自身遅かった方で、嫁さんに言われて、はっと気づいたところもあるんで、偉そうにいえないと思うんですが、そこは反面教師ということで許してもらえるならば、やはり、その決断のタイミングは早い方がいいのではないかと思います。
新しい世界で、使ってくれる人、待っててくれる人がいるんだと信じて、決断する、大事なものはそれではないでしょうか。
まずは謙虚になって、新しいスタートの時は「頭を下げて、第一歩を踏み出すこと」。そうすれば、助けてくれる人は必ずいると思います。
プロフィール
高橋 智(たかはし さとし)
●出身地
神奈川県横浜市泉区
●生年月日
1967年1月26日
1984年のドラフト会議で阪急ブレーブスが4位指名し、投手として入団。1、2年目はウエスタン・リーグで登板する一方、野手としても2年目に36試合出場した。1986年オフに就任した打撃コーチの水谷実雄の勧めで打者に専念することを決め、秋季キャンプではマンツーマンの厳しい練習を受けた。その後は外野手として活躍し、月間MVP、ベストナインの受賞、そしてオールスターゲームや、日米野球に出場した。
194cmの身長から、愛称は「デカ」。身長194cmはNPBに所属した日本人野手としては最長身であるとされている。
現在は名古屋近辺で生活しており。エレベーター整備工として取引先の新規開拓にも携わるかたわら、プロ野球マスターズリーグ・名古屋80D’sersの4番打者としても活躍している。また、阪急およびオリックス・ブルーウェーブのOBとして、後継球団であるオリックス・バファローズのイベントに登場することもある。
2013年10月8日にTBS系列で放送された特別番組『俺たちはプロ野球選手だった』では、高橋自身の証言を交えながら、現役引退後の人生と近況を紹介していた。
●投球・打席
右投右打
●ポジション
外野手
●経歴
向上高等学校/阪急ブレーブス/オリックス・ブレーブス/オリックス・ブルーウェーブ/ヤクルトスワローズ/北誠泰太陽