柳本 元晴 Yanamoto Motoharu
フリー・スポーツ・ジャーナリスト
立教大学卒業/週刊ベースボール元編集長
広島県出身。1982年に(株)ベースボール・マガジン社に入社。週刊ベースボール編集部にて、プロ野球、アマチュア野球などを中心に編集記者を務める。91年に水泳専門誌(スイミング・マガジン)の編集長に就任。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪を現地にて取材。98年、創刊されたワールド・サッカーマガジン誌の初代編集長を務めたのち、99年3月から約10年間にわたって週刊ベースボール編集長を務める。2014年1月に(株)ベースボール・マガジン社を退社。フリーとしての活動を始める。2012年からは東京六大学野球連盟の公式記録員を務めている。
100周年を迎えた高校野球。8月6日に始まった今年の大会は、その第1回大会(当時は中等学校野球大会)に出場した学校が、当時のユニフォーム姿で更新した。さらに、その第1回大会で優勝した京都二中の流れをくむ鳥羽高校の梅谷主将が選手宣誓を行うなど、「100年」の重みを感じさせてくれる、いい開会式だったと思う。
一方で、私は先日、年の若い知人から「100周年なのに、なぜ97回大会なんですか」と聞かれた。第二次大戦の影響でブランクがあることを知らないのである。
そういえば2〜3週間前のニュースで、今の若い世代の多くが、「8月6日」が世界で初めて広島に原爆が投下された日であることを認識していなかった、と伝えていた。
高校野球100年、終戦から70年。たしかに“戦後”は忘れられつつある。あらためてそういう思いをすることが多くなった。
以前にも書いたと思うが、私はその原爆が落とされた広島市の生まれ。私自身は、戦後11年経った昭和31年生まれであるから、戦争の悲惨さを、身をもって知っているわけではない。しかし、両親、祖父母は「被爆者手帳」を保持しており、俗に言われてきた「被爆二世」にあたる。親戚の中には、原爆で命を失ったものもいるし、後遺症で長く悩まされていた人もいると聞いた。
幸いにも、私の家族には、被爆の影響はほとんどなく、実際に被爆者手帳が“活躍”することはほとんどなかったので、私自身、被爆二世であることを常々実感しているわけではないが、すでに父、祖父母は逝去し、母も老齢となって、病院と介護施設を行き来する日々。たしかに、“戦後”は忘れられつつあるのかもしれない。
その原爆投下から70年が経った日、広島では、戦後の広島市民の支えともなったカープが、「ピースナイター」と名付けて、日本では初めて、ベンチ入りのメンバーがすべて「86」の背番号を背負い、その背番号のうえ、いつもはローマ字で名前が記されている場所には「HIROSHIMA」が並んだ。胸は「CARP」に代わって平和を意味する「PEACE」がつけられていた。
出場選手全員が同じ背番号を背負うのは日本では初めての試みだという。MLBでは、黒人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの栄誉をたたえ、彼のメジャー・デビューとなった4月15日(50年後の同日には全球団共通の永久欠番とした)を「ジャッキー・ロビンソン・デー」として、全球団の選手が「42」の背番号をつけてプレーしている。
全選手が同じ背番号を背負うことを、何かのイベントがあるたびに実施することについては、いろいろ意見はあると思うし、頻繁にこのようなことをやれば、むしろ、その意義や価値が薄れるような気はするが、こと広島においては、8月6日は特別な日であり、それを広島市民だけではなく、国民の多くに発信するという意味では、今年だけではなく、今後も続けてほしいと思う。
昨今は安保法案の件で、“戦争”が語られることが多くなった。政治的な話をここで語るつもりはないが、70年前に実際に日本が参戦した戦いがあり、そこで多くの悲しい出来事があったことを忘れないためにも、8月6日の広島、9日の長崎、そして15日の終戦は、記憶にとどめておかねばならないはずだ。
ちなみに私自身、自戒を込めて反省することがある。ピースナイターで選手が着た「86」のユニフォームの背番号を見て、真っ先に連想したのは、かつて日本ハムファイターズの監督を務められていた時の大沢啓二監督の背。「ハムだから86」のセリフだった。たしかに8月6日」は「ハムの日」として制定されているらしいが、広島生まれの人間としては、ちょっと、反省…。