柳本 元晴 Yanamoto Motoharu
フリー・スポーツ・ジャーナリスト
立教大学卒業/週刊ベースボール元編集長
広島県出身。1982年に(株)ベースボール・マガジン社に入社。週刊ベースボール編集部にて、プロ野球、アマチュア野球などを中心に編集記者を務める。91年に水泳専門誌(スイミング・マガジン)の編集長に就任。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪を現地にて取材。98年、創刊されたワールド・サッカーマガジン誌の初代編集長を務めたのち、99年3月から約10年間にわたって週刊ベースボール編集長を務める。2014年1月に(株)ベースボール・マガジン社を退社。フリーとしての活動を始める。2012年からは東京六大学野球連盟の公式記録員を務めている。
その年の3月を迎える前に私の大学受験の失敗が決まった。浪人生活のスタートである。
私の通っていた高校は、県下で1、2を競う進学校であった。それ故に父や母の期待に応えようと、当時の学力以上の大学を受けたというところもあったが、秋に行われた模試で、奇跡的にも高得点を得たこともあり、担任の先生からも、否定的な評価を受けなかったこともある。
試験を終えてすぐ、ダメだろうな、とわかるほどの、手応えの全くない試験だった。
両親とも、今どき浪人も珍しくはないし、とそうなってしまった現実を、怒るでもなく、泣くでもなく、淡々と受け止めてくれていた。
私はといえば、さしあたって何をしたらいいのか、と浪人生の1日の過ごし方に戸惑っていた。
1年前は、授業がある日もない日も、毎日高校に通い、野球の練習に明け暮れていた。
野球やりたいな〜。寝転んでは、天井に向けてボールを投げる。天井スレスレ、当たるか当たらないかの微妙なところに投げられるかどうかを、楽しんでいた。
カープはこの年、初めての外国人監督を就任させた。ジョー・ルーツ。前年にコーチとしてチームの一員となっていたルーツを“格上げ”した格好である。当時の私は、ルーツのアメリカでの実績はほとんど知らない。メジャー・リーグでの選手としての実績がほとんどないことはどこかの新聞で読んで知ってはいたが、コーチや監督としての実績はどうなんだろう。チームとしてはやけっぱちみたいなもんだろうなと思っていた。
なにせ、昨年まで3年連続最下位である。監督を務めたのは、別当薫、森永勝也。現役時代に打撃タイトルを獲得したことのある球界の大OB。森永はカープにとってただ一人の首位打者を獲得したことのある選手だったのだ。
確かに監督としての実績は乏しいが、選手としてのは日本球界では一流の方々が指揮しての最下位なのである。なす術がないというか、大物監督を招聘してもダメなら外国人監督で想像もつかない手を見せてくれるんじゃないか、そんなところへの期待だったんだろう。そんな風に思ったのだ。
ただ、外国人監督らしく、変な情や情けにとらわれないチーム改革は目立っていた。何よりも驚かされたのは、主力級選手のトレードだった。大石弥太郎、白石静生、ローテーションに入っていた2人の投手を阪急にトレード。かつて外木場義郎とエースとも言える活躍を見せていた安仁屋宗八も、阪神に出した。体制が変わり、居場所を探していた日本ハムから地元・広島商出身の大下剛史を獲得した。大石、白石に代わってチームに加わったのは宮本幸信、渡辺弘基。ネームバリューはないが、これらのトレードが、ことごとく成功したのだ。
<証言>
衣笠さんはルーツの本気を感じ取っていた。選手の心をくすぐる術を知っていたとも。
「まず背番号3でしょ。前年限りで、長嶋茂雄さんが引退されて、僕が長嶋さんのあこがれていたことを知っていた(僕だけじゃないけれどね)ルーツは、僕の背番号を28から長嶋さんの3に変えることを提案した。そして、『おまえが長嶋の後を継ぐんだ』と。いろいろなトレードもそうだけれど、彼なりにいろいろなことに配慮して、とにかく弱いカープを変えることに必死だったのは間違いない」
多くのトレードを実現させ、一方で、生え抜きで、軸になってもらわなければならない選手には、いろいろな面でサポート、心をくすぐることを忘れない。見た目と異なり、細やかな気配りを実行していたルーツ監督だった。
優勝候補とも言われたカープだが、予想に反して絶不調のスタート。例年、カープは「鯉のぼりの季節までは元気がいい」と言われており、スタートダッシュには定評があったが、近年はそうでもないようだ。緒方新監督にとっては、厳しいシーズンとなっているが、実は75年も開幕から不振続きで、4月末の段階では5位に落ちていた。もっともこの年は、長嶋巨人が開幕から最下位を“独走”。カープが最下位に落ちたことはなかったので、この点だけは少し違う。
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