あのヒーローは今
あのヒーローは今 第七弾
バックナンバーはこちら>>
ミズ(水口)とは、近鉄時代に同じユニフォームを着て戦った、いわば“戦友”である。大学時代にも私は法大、ミズは早大の一員として、私が3年生からの2年間だけであるけれど、東京六大学、神宮球場を舞台に闘ってきた。高校時代(松山商)にも全国準優勝を果たすなど、経験豊富で勝負強く、さらに運の強さを持っているミズは、体は決して大きくないけれど、キャプテンシーがあり、野球を熟知している選手の一人。チームにとって大変貴重で、頼りになる存在だった。そのミズが野球塾を開設し、次代の選手たちの育成に取り組んでいるという話を聞いて、あらためてぜひ、話を聞かせてもらいたいと思ったのだ。ミズの野球に対する思い、野球観、さらには子供たちへの熱い思いを聞くことができ、私にとっても貴重な時間となった。
(アスリート街.com 中根 仁)
現役生活の晩年には、いずれは子どもたちを指導したいと思っていた
中根:ミズ(水口)は、ユニフォームを脱いでから、今のような子供の指導をしようとか考えていたの。
水口:現役時代から、考えてはいましたね。プロ野球選手と言うのは、先がどれくらいあるかわからないじゃないですか。調子よく行っていても、けがをして突然プレーが出来なくなることだってある。常に将来のことを考えてやらないといけないという思いはありました。現役引退後、コーチをやらせてもらったんですが、コーチも何年できるかわからないですからね。それで、実際にその後のことを考えた時に、餅屋は餅屋と言いますか、良くも悪くも、野球のことしか知らないんですよね。もちろん、心機一転、他の仕事に進むという道もありますけれど、できるなら、野球に携わる仕事をやりたいという気持ちはありました。そういうことを思っている中で、子どもたちに野球を教えられたらいいなという気持ちは持っていましたね。
中根:現役の時から考えていたのか。早いうちから考えていたの?
水口:いや、後半ですね。自分の現役生活は、最初のころ、全然打てなくて、どうしようとかなと考えてばかり。その中で、自分で考えたこと、コーチに言われたことなんかを、ずっとノートに書き留めていたんです。そのノートが何冊かになって、逆にそれを生かすというか、自分がバッティングコーチになってできたらいいなと言う風に思うようになって。近鉄がなくなって、オリックスに移ったころですかね。
(左)中根 (右)水口栄二氏
中根:その時、ミズは何歳だった。
水口:36歳でしたかね。
中根:ミズは何歳まで現役やったの。
水口:39歳ですね。
中根:お前すごいな。そんなにやったんだ(笑)。そうやって、自分でやってきたことをノートに書き留めて、それを指導のメソッドに変えていったんだな。
水口:そうですね。まあ実際、打てなかったですからね。その間、いろんな練習法や、教え方が、その時の指導者によって変わるんですよ。そういうのを整理しながら、できたらいいなと思っています。
中根:現役中に、もうそろそろ引退だな、と思い始めたきっかけのようなものはあったか。
水口:いやー、どうでしょう。そういうのはあまり考えなかったかな。考えなかったですけれど、一方で、いつ辞めてもおかしくないなというのは、ずっと思ってやっていました。まあ、プロ野球というのは、結果が全てですから、打率が延びなくなったり、試合に出られなくなってきたり、そんなことがきっかけと言えばそうかもしれないですね。
中根:最後は打率何割くらいだった。
水口:最後はですね、2割2分だったかな。
中根:その前は
水口:2割5分くらい。
中根:その前は(笑)。
水口:忘れました(笑)。覚えていない。だんだん、落ちていきますね。これくらいの成績だから、来年は契約結ばないよ、とそれを言われたら、終了ですから。正直に言うと、個人的には、もう一年やりたかったな、というのはあります。いろいろあって…。
中根:体は大丈夫だった?
水口:ヒザがね。ヒザと言うより、ふくらはぎですね。その影響もあって、最後の方は代打ばかりでしたから。だけど、代打で、もう1年やりたいなと言うのはあったんです。突き詰めたいというか…。
中根:そうか…。目は大丈夫だった?
水口:大丈夫。自分としては、打てる自信ありました。代打でまだいけるなと言う気持ちはあったんですけれど、まあ、成績が成績だったんで、何も言い返せなかったですね。
中根:でも、大したもんだよ。オレ、最後の引退の年なんか、20打席で16三振くらいしている。
水口:ホンマですか。目が原因ですか。
中根:目と言うか、気持ちかな。もうダメだなと自分で思ってしまった。それから全然ダメ。打てなくても、なんとも思わなくなった。もう無理やと自分で思ったらダメだな。それからというもの、全然体が動かなくなった。相手投手は真っすぐしか投げて来ないんだよ。真っすぐしか来ないから、イチ、ニィ、サンで合わせたれと思って振りに行こうと思っても、手が出ない。振りに行っているのに振れない。タイミングを取れない。目も悪くなって、毎回、あっという間に2ナッシング。真っすぐ、真っすぐで、2ナッシング。また2ナッシングや、どうしよう、と思っているうちに、次は変化球でクルリ。毎回、そのパターンだった。で、オールスター前にファームに行って、そのあと上がれずじまいで、そのまま引退だった。
水口:僕は、最後まで一軍におったんですよ。それで最後の2週間だけ、落とすと言われたんです。次の登録までは10日間でしょ。そこで一軍に上げて、引退試合をするということになったんです。それが2週間前に言われたんで。えっ? となって・・・。
中根:コーチの時は? いきなりクビと言われた?
水口:ファームに一回落ちました。選手じゃないから、落ちましたというのはおかしいですかね。一、二軍との入れ替わりでファームのコーチに転換させられました。成績が出ていなかったですからね。辛いですけれど、仕方がないというところもありました。で、結局その年にユニフォームを脱ぐことになりました。
水口氏
中根:その時はどんな感じだった?
水口:実は、フェニックスリーグに行くために荷物も準備して出していたんですよ。その次の日に言われて。はい?って感じですよね。だって、もう荷物も送りましたよって感じです。球団としては、フェニックスに行ってから伝えるよりも、一日でも早い方がいいという考えだったみたいです。ただ、シーズン中の配置転換などがあったんで、なんとなく、もう覚悟はしていた。いつ辞めてもいいな、辞めろと言われてもおかしくないな、という感じは持っていましたね。
中根:その時は、この野球塾を考えていたの?
水口:考えていました。ずっと考えていて、僕らが選手に教えたことを、小学生とか中学生に教えたら、どうなんかなと思っていました。楽しみはあった。どんなレベルになるのかな、と。
中根:そこからは、その考えていたことを突き詰めようか、という感じか。
水口:そうですね。子供たちを教えたいと思ったんですけれど、ただ、そこで、想像を絶するしんどさでした。土地探しからですね。中々、いい場所がないんですよ。
中根:土地を探していたの。建物? 倉庫?
水口:倉庫ですね。まず倉庫を探していて…。でも、ないし、あっても高いし…。僕がどのくらいの集客をできるか、わかららないし。利益がどれくらい上がるかもわからないし…。そんな何もかがしんどかったですね。
中根:誰かに相談とかしなかったの。
水口:全部、自分でやりました。もう、賭けですよね。まあ、今でもそんなに成功しているとは言えないんでしょうけれど、まあ、何とか形になってきた感と言うのはあります。
野球だけではなく、勉強も一貫して教えられる教室にしたい
中根:ここ広さどれくらい?
水口:200坪ですね。
中根:駐車場を入れて? 全部で200坪?
水口:そうですね。もう、建物も含めて、作ってしまったら、やるしかない(笑)。
中根:ユニフォームを脱いで、ここを開いたのが2013年。
水口:はい、4月ですね。
中根:集客とか、最初は、どういう感じで進めたの。
水口:チラシはちょっと配りました。あとはネット、HPですね。口コミはあんまりないですね。野球チームに入っていて、なおかつ、ここで練習するわけで、その所属しているチームに、ここでやっているのを知られたくないという子が、案外多いんですよ。だから、口コミはあまり期待できなかった。まあ、なんか知らないけれど、電話とかいただいたりし始めた。その辺のHPと看板ですね。看板を見て電話しましたという方もいらしたし。
中根:チラシはどれくらい。
水口:この辺だけですね、ちょっと配りました。パソコンで、自分で作った。一軒一軒配ったというんじゃなくて、お店、散髪屋さんにおいてもらったりしました。それで見てこられた人もいました。最初は、生徒は20人くらいですかね。それからちょっとずつ、増えてきて、今は50人ほどいますね。
中根:教える側の人数の問題もあるし、今、3人でやっているんだっけ。だとしたら、そんなに集まっても、しっかりと教えられないということはあるよね。どれくらいが適当と考えているの。
水口:1日に指導できるのは、15人くらいですかね。選手によって、こちらに来る曜日も異なります。平均、週1回。月にならすと4回か5回ですね。全体では今くらいがいいと思っています。
中根:だいたい、この辺の子どもたち?
水口:この辺の子もいますけれど、遠くから来ている子もいますよ。和歌山の子もいます。
中根:和歌山?
水口:和歌山とか、奈良の子もいますね。
中根:すごいなあ。
水口:本当に一所懸命やっている。真剣にやりたいという子が。
中根:どこかのチームに属しながら、平日のスクールに来るという感じですか。
水口:そうですね。
練習風景
中根:和歌山か、通うだけで何時間かかるんだろう。すごいなあ。実際にやってみて、子どもの指導というのはどう? コーチ時代と比べて、どんな感じかな。
水口:一言で言うと、大人の方が楽(笑)。というのは、野球を、やっていない子とか、そこまで技術のない子とかも来る。小中学生だから、その子らをどうやって打たせるか、僕自身が宿題をもらう。うまく教えられないのは、自分に指導力がないからなんじゃないかと。どうやって簡単に、わかりやすく教えられるか。理論を教えればいいというのだったら、簡単に教えられますよ。野球経験のある大人だったら、なおさらですね。それが、子供相手に理論から入ってもうまく通じない。まず、練習方法を教えて、後付けで理論を教える、その方が子どもにはわかりやすい。
中根:前に、写真を見た時に、トランポリンとか、バランスボールを使ってやっているというのを見させてもらって、ああすごいな、たぶん体でわからせるために、いろんなものを使っているんだろうな、と思っていたんだけれど。
水口:体で覚えさせないと、どういう風な感じで動いているのか、子どもたちは分からないんですよ。ビデオとかも撮って、テレビ置いて、こういう感じやで、というのを見せながら進めています。
中根:なるほど。特に小学生とかは説明するのも大変じゃないの。
水口:小学校1年2年はすごいですよ、てんやわんや。ただ、いろいろ発見するのは小学生を見た時ですね。バットに当たらない子はここが原因やな、と言うのがわかってきた。そういうのを見つけて、教えて打てるようになった子供の笑顔は何ものにも代えがたい喜び、楽しみがあります。
中根:親御さんともよく話はするの?
水口:しますね。近いところにいるんで。どうですか、最近と聞くと、だいたい「打てないです」という人が多いです(笑)
中根:まあね。教えても、いざ実戦になると結果が出ないというのは当然あるわ。結構時間がかかるとこともあるよね。
水口:それでも、高校に進んだ子が、結構活躍してくれたりして、教えがいがあるというか、そういうのは増えてきたんで、ちょっと喜びも感じています。
中根:そういう気持ちは大切だよね。ここで習った子が、高校野球なんかで活躍しているのを見て、やりがい、教えがいと言うのが、指導者としての喜び、その気持ちは分かるよ。
水口:打てました、とか、ちょっと成績が上がってきました、と言ってくれるのがやっていて楽しい。
中根:今後はさらに展開して、2店舗、3店舗と増やしていくということは考えていますか。
水口:そうですね。それにはまだまだいくつもやらなければならないことはありますけれど、いずれはそういう風になれたらいいなとは思っています。とりあえずですね、ここに塾を作ろうと思っているんです。勉強のための塾です。ここに塾を作って、野球と勉強とのセットでやっていきたいと思っている。野球をやっている子たちが、希望があれば、ここで勉強してから帰る。4月くらいからできたらいいなと、考えているんですけれどね。
中根:今、そういうところが増えてきているよね。
水口:やはり進学というのも、大事なことなんで、実際、野球をやりながら、一方では学習塾にも行っている方も多いんで。
中根:やっぱり文武両道が大事だよな。
水口:そうですね。チームに入っていて、今日は塾だから練習休みますというのも、子どもたちにとってはストレスになっていると思うんです。それが、ひとつのところでできるなら、そういうストレスもいくらか解消されるんじゃないか、と。子供にとっても、親御さんにとってもですね。野球だけやるんじゃなくて、あそこはしっかり勉強も見てくれるということになれば、少しは安心し預けてくれるんじゃないかという考えもありますね。
中根:練習やっているところに学習塾があって、勉強がおろそかになったら、そんな成績では高校にも行けんぞと、教えてやることもできるしな。
水口:そうですね。全部一貫して面倒を見てあげられるというか、そういうことができればいい。そのためにも、いずれは、チームも作りたいと思っているんですけれど、グラウンドがないんですよ。場所がない。チーム作ってくださいと親御さんからも言われています。そこが今の悩みどころですかね。
中根:そのためにもスタッフを充実させなければいけない。たとえば、今の現役選手たちが、こうやってミズが野球塾をやっているのを見て、引退するときに相談したいと思う人も、いるのではないのかと思うんだけど、そういうことに一緒に手伝ってみたいという人がいたら、いいな。その前に、引退が現実的な話となる前に、こういうことをやっておいた方がいいよ、とか、こういう準備をしておいた方がいいよとか、そういうアドバイスはありますか。例えば、プロ野球以外でも、アマチュア選手の方が、就職したり、現役を引退するということになった時の心構えとしても。
水口:そうですね、プロの世界はいきなり言われるから。心つもりというか、そういう準備はしておかなければいけないと思うんですけれど、ただ近年、アマチュアの指導ができるという選択肢が増えましたからね。それは非常に大きい。選手に対する指導はそれでもまだ、非常に難しいことが多く、クリアしなければならないところも、たくさんあるんですけれど、もう野球の世界には戻れないと思っていたプロ野球リタイア組が、アマチュア野球界に戻れる、指導できるということは、これまでとは大きな違いです。そういうことも、現役を辞める前に考えていてもいいのかなと思います。あまりうまく言えないですけれど。
中根:現役選手が現役中に、次の仕事を考えながらやっていた方がいいと思うか。
水口:いいと思います、僕は。特にトシをとればとるほどそう思います。トシをとると、真剣に考えることだとは思うんですけれど、そこは。ただ、野球選手は、僕もコーチの人に言われましたけれど、寿命は短いですからね。人生は、ほとんどの野球選手にとって、選手を辞めてからの方が長い。そのあとどうするかは自分自身で考えておかないといけないことやで、と言われたことがあります。でも、野球選手はほとんど考えていないのが現実。そこで、ちょっとでも、10%でも考えていた方が、野球を辞めた時に楽になると思う。メンタル的に、精神的なものも非常にでかい。いきなりだと、一瞬ですからね。もう明日から来なくていいよと言われたら、その後収入はないわけですから。極端に言えば。野球には没頭してもらわなければいけないんですけれど、そこで、なんかの夢を持ってもらっていたら、どうですかね。
中根:それ、よく聞くな。こうやって、OBの人に聞くと、そういう話がよく出てくる。一つの夢が終わってしまうから、次の夢を持たないと、やっていけない。
水口:メンタルですね。精神的にやっていくのがつらい。「どうしよう」の言葉よりも、「これから何しよう」という風に考えておいた方がいいと思う。少しでもやる気が出るんでね。その中で、僕らが受け皿を作ることができれば最高なんですけれども。何人の助けになるかわからないですけれど、そういう意味でも、2号店、3号店がほしいんですけれどね。まあ、焦らずに進めていきたいと思います。
中根:わかった。次の世代のためにも、ミズ、ぜひ頑張ってください。きょうは、いろいろ話を聞けてうれしかったよ。ありがとう。
プロフィール
水口 栄二(みずぐち えいじ)
松山商業高校から早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に進学。
松山商で主将として1986年の夏の甲子園で準優勝に導く。
この大会で、大会安打最多記録の19安打を記録し、未だこの記録は破られていない。
早大では1年生のときから遊撃手のレギュラーを獲得し、4年生時には第80代主将としてチームを15シーズンぶりのリーグ優勝に導いた。
1990年、近鉄バファローズからドラフト2位指名。
1991年から2007年の引退まで主に二塁手として活躍。
2001年の大阪近鉄バファローズの12年ぶりのリーグ優勝では、不動の2番セカンドで貢献した。
粘り強いバッティングが持ち味だが、僅差の2位で迎えた9月17日の対西武戦での松坂大輔からの決勝打や、同年の日本シリーズ第2戦の同点ホームランを放つ等、ここ一番に強いプレーを見せた。
2006年に1500試合出場を達成。
引退後は打撃コーチとして、坂口智隆・T-岡田・バルディリスなど数々の選手をオリックス・バファローズに欠かせない戦力に成長させた。
2013年野球心
バックナンバーはこちら>>